- 作者: 國安輪
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/07/24
- メディア: 単行本
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ボビー・バレンタイン監督絶賛!「ハイディは私の親愛なる友である。彼と一緒にいて、野球というものをより深く知ることができた」
ナント!彼は、日本人初のマイナーリーグ1Aの監督経験者なのだ!そしてホークス、マリーンズの二軍監督として城島、西岡、成瀬、川崎、今江らを育てた九州男児の破天荒な面白すぎる野球人生を紹介しよう!
・二軍監督という仕事はよいことばかりではありません。せっかく大金をはたいて入団させた選手が途中で挫折したときは、自らの手でクビ切り役をやるのですから残酷なものです。
球団の編成方針で大学卒は三年、高校卒は五年くらいを目処にして、芽が出ない選手を任意引退させあたり、自由契約にしたりしてしまう世界なんです。
ヒヨコみたいな選手を預かって一人前の選手に鍛え上げるのが、二軍の監督やコーチの仕事です。目標はファームで育てた選手たちの一軍定着です。
・甲子園出場の常連校・熊本工業高校から関西の雄・近畿大学、日本一の人気球団・読売ジャイアンツへと野球エリートの道を進んだ古賀だったが、プロ入りして三シーズンかぎりで挫折する。投手として入団したものの無理をして背筋を痛め、すぐに外野手に転向するが打撃成績を残せなかったためクビを宣告されてしまったのだ。すると彼は、手荷物ひとつ持ってアメリカ大陸へと渡ってしまう。若干26歳。大好きな野球を続けたい一心だった。
めざすはメジャーリーグ入り。当時、日本のプロ野球界からメジャーリーグにデビューしたのはたった一人、元南海ホークスのマッシー村上こと村上雅則投手しかいなかった。
・ハイディと呼び名を変えた古賀が、アメリカチームで初めてプレーしたのが。、1966年。1Aリーグに属するチームでピッチャーをやっていた。三年間彼なりに奮闘した。しかし思ったような成績があげられなかった。一方で古賀は野球英語をマスターすると同時に、本場の野球理論と勝負勘を身につけた。アメリカに滞在すること7年。その間に振興の「グローバルリーグ」に参加し、なぜかレストランを経営。この事業にも失敗したこともあって、古賀はようやく日本に帰国する。
・復帰した日本プロ野球界ではおもに英語通訳や外国人選手の海外スカウトマンとして働き、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の通訳兼バッティングピッチャーをやったのを皮切りに、福岡ダイエーホークスではヘッドコーチや二軍監督など、グラウンド内での欠かせぬ人材として重用されてきた。そして特筆すべきは。、1990年から3年間にわたって、アメリカ・プロ野球チーム「サリナス・スパーズ」の監督をやったことだろう。未だにアメリカのプロ野球チームで監督をやった日本人はほかに誰もいない。そんな大役を、日本球界ではろくに活躍しなかった"その他大勢のプロ野球選手"古賀が、今から15年以上前にやってのけたのはなぜか?…それは…本を読んでね。(^_-)-☆
・バレンタインと古賀。この監督コンビがロッテマリーンズの再生に成功したのは、両者間の絶妙なコンビネーションにあった。しかも、彼らの会話は英語のみ。ハイディというアメリカ名をもつ古賀の存在が、日本語を話せないバレンタインの支えになっているのだ。
…ん〜スゴイ!名選手が必ずしも名監督や名コーチじゃなかったりするけど、ハイディ古賀は逆のケースだね。こういう縁の下の力持ちって好きだなあ!(^^♪