昨日、紹介した『星野流』で、星野仙一氏が最も影響を受け、恩師と思い、「オヤジさん」と心の底から思い出し、偲ばれるのは明治大学野球部の名物監督、あの島岡吉郎監督だ。「自分は明治大学野球学部島岡学科出身だ」と語ることがあるほど。(^^♪
そうそう、私が大学生の時には、現役バリバリの監督であのダルマのような体型とでかいお尻が印象的だった。ちょっと長くなるけど『星野流』の中から貴重なエピソードを紹介しよう。
・プロに入ってからも、我々にとっては真夜中になる朝7時、8時でも島岡御大からの電話だと聞けばガバッと跳ね起き、受話器を両手で握り締め直立不動で「ハイッ」「ハイッ」と返事していた。
島岡さんは単に怖いとか厳しいとか、そんな単純な生やさしいものではない。大学での4年間、どこにいても島岡さんの話し声、せきばらい、スリッパの足音を聞いただけでみんな震え上がったり、緊張で石のように固まってしまうというようなそんな恐ろしさのある存在だった。
・島岡さんの下で修行したら、もう世の中に怖いものはなにひとつない。私の怖いもの知らずはこの島岡のオヤジの鬼神のような教育のたまものだ。早くに父を亡くし、母と姉二人の家庭で育った私にとって、この島岡のオヤジと巡り合えたことは、天にも感謝したい。
・田舎の高校から出てきた世間知らずの若者にとって明大野球部というところはとんでもないところだった。朝は夏なら午前4時半、冬なら5時半というのは起床時間ではない。練習の開始時間だ。
島岡さんは常にその1時間前には起きて、もう身支度をして合宿の玄関で目を光らせているのだから。部員たちは実際にはもう真夜中から起きてこの時間に備えている。まず、裸足でグラウンドを20周。それから相撲の"蹲踞(そんきょ)"の姿勢でグラウンドの草取り、小石拾いに1時間。
・練習試合(紅白戦)といえども常に全員必死。命懸けのプレーと態度というものを要求されて、骨の髄から搾り出すような気魄が前面に出ていなければ怒声、罵声、鉄拳が飛んでくる。不撓不屈、闘魂、執念、気力といった活字がグラウンドの舞い躍っている。「なんとかせえっ」「なんとかせえっ」というベンチからの怒号が今も耳の奥に残っているような気がする。
・試合に負ければ、「お前なんか死んでしまえっ」だ。「命懸けでいけ!」「魂を込めろ!」「誠を持て!」という3つの口ぐせ、これを常に復唱させる。
・島岡さんは、補欠よりレギュラーに厳しく、下級生よりも上級生に厳しかった。4年生でキャプテンだった私が5月の春の大会で早稲田に4回でKOされ、1対8で負けたときは、大変なことになった。夜中、雨が降っているのに突然、「パンツ一丁でこいっ!」と呼び出されてグラウンドに行くと、島岡さんもパンツ一丁のハダカで仁王立ちしてい待っている。「これから一緒に、グラウンドの神様に謝るんだ」とぬかるみのグラウンドに土下座、頭を地面につけて、「神様、申し訳ありません」と何十回、何百回と繰り返すのだ。「なんでこんなこと、しなきゃならんのだ」と思いながら2時間にも及ぶみそぎだ。
「グラウンドで毎日、こうして技術、体力、根性−人間を磨くことが出来るのはグラウンドの神様のお陰なんだ。」島岡さんはいつも本気でそういうことをいう監督だった。
厳しい一方でチームの調子がいい時、買ったりしている時は、キャプテンの私に新宿のレストランで、「なんでも好きなのを食え」とご馳走してくれた。
・明大野球部のキャプテンにはグラウンド外でも3つの役目があった。
①合宿のトイレ掃除 ②監督の車の運転手兼付き人 ③チームについての意見具申だ。
①は、「どんなことでも、特に人の嫌がること、つらいことこそ先頭に立って上の者がやれ。」といってトイレ番の初日には、島岡監督自らがタワシと雑巾を持って「こうやるんだ」と手本を示す。正に率先垂範。便器の掃除にしてもいい加減にやっていると便器をなめさせられるのである。
②は、監督や外部の訪問者を乗せて運転するので、運転マナーから作法、言葉遣い、服装、時間厳守など、普通の生活上のさまざまな気配り、目配りの良い修行になった。例えば、客が来る。車に駆け寄ってドアをさっと開ける、時には傘を差し出し、カバン、手荷物を受け取って、玄関に運ぶ。足元にスリッパをそろえて出す。先に立って応接間に迎え入れる。荷物があればそれも持つ。テーブルにつけば椅子を引いて、さあどうぞとすすめる。コートや上着を脱げば丁寧にたたむなり、ハンガーにきちんと掛ける。タバコを手にすれば灰皿を近づけ、ライターに火をつけて差し出す…云々。
形だけでするのではない、人を見てするのでもない。これは島岡さん仕込みで誠心誠意、隙なく心を込めて行うわけだからすじ金入りだ。すべてが1年後に社会に出るための最終点検のようなものだった。
③は、明け方、監督が目を覚ます頃合いを見て監督室に行き、その日の練習や試合についてのプランや意見、たとえばオーダーの編成などについても申し述べる。これも自分の判断力と責任を問われることであり、どんなに勉強になったか。全てが島岡流の人間教育だった。
・裏表がなく、桁外れの熱情家で怖い人ではあったけれど、常にそれに匹敵するほどのやさしさや温かさも併せ持ち、自分の息子ほどの年の選手の声も聞く。何十年も都内の自宅には帰らず、選手と寝食を共にする合宿暮らしを通していた。
しかし、卒業して、やがて野球部から社会に巣立って行ったものに対しては以降、等しく「さん」付け、「君」付けで、言葉遣いも目つきも別人のように丁寧に変わるのである。これは島岡さんならではのけじめのつけ方なのだろう。私たちは、だから、島岡さんの下から離れてもいつまでも頭が上がらないのだ。
クウ〜!!!(>_<) 凄すぎ〜!今はこんなカミナリ親父がいなくなったね〜。ウチ(SA)の桑原にもその片鱗を少し感じるが…。(^_^;)