この本、すごいわ。考えさせられるわ!無意識に感じていた違和感をズバリ!コトバにしてくれたっ!!!だって、電車の椅子が、座りにくいんだもん!なぜ!?゚(--〆
「排除したい。だからこそ、見えづらくする。街を歩いていても気づきにくいし、目をこらさないと見えてこない。人々の目に付けば議論になる。それを避けるために、ひっそりと、こっそりと、進められていく排除のシステム。誰が排除されているのか。どうやって排除しているのか。11人の論客がそれぞれの専門分野の状況を読み解く」そのエッセンスを紹介しよう。
・(ダグラス・マッカーサー)「もしも我々アングロ・サクソンが、科学、芸術、宗教、文化などの成長において四五歳であるとするならば、アーリア人であるドイツ人も、同じように成熟していた。ところが日本人は、国としては古い歴史を持っているが、禁断文明という尺度においては、十二歳の少年のようなものである。だからこそ彼らは教育を受けやすい。新しいモデルや発想、(民主主義や基本的人権などの)思想を受け入れやすいのです」
・そして今、戦後から七八年が過ぎた。だから煩悶する。吐息をつきたくなる。日本はどれほどに成熟したのだろう。
・本書を構成する11の論考すべてに共通するキーワードは「排除」と「差別」だ。論者たちはそれぞれの専門領域において、こうした用語や概念の現在形について考察する。問題を提起する。本書を読みながら、あなたにも考えてほしい。僕たちの実年齢は今いくつなのかと。
・電車の長椅子状の座席には、いくつかのパターンが存在する。たとえば両端にのみ仕切りがついたタイプ、真ん中に鉄の棒がついたもの、二か所にに鉄の棒がついたもの、さらに肘掛けがついたもの。なぜ自由に座れないのかと言語化まではしないだろうが、無意識に不自由さを感じているかもしれない。言葉によって行為を命令せず、椅子のかたちが人々の振る舞いをうながしているからだ。
・物理的に特定の振る舞いをできないようにするのが、排除ベンチなのだ。ちなみに、日本では一般的に「排除アート」という言葉が使われる。(「かたちが命令する」(五十嵐太郎))
・日本の都心には、本当にベンチがないのです。世界中をそんなに見てきたわけではありませんが、床や階段、手すりや建物の基壇など、海外の方はあちこちにすぐ座ります。そしてベンチもあります。まちの中で座り込むこともある、ということが前提になっているような設計が、あちこちに見られます。
・日本ではベンチを作るメーカーは、どなたかを排除する目的の設計を前向きな言葉にすり替えている、ということでした。高めの手すりをつけて寝転べないようにする、長居できないように座面を低く高くするというようなニーズがいつくもあるようで、誰にとっても座り心地や居心地が悪いベンチがいくつも誕生していました。
・わたしは現状、都心にあまりにベンチが足りないこと、ベンチが排除デザインではなくフラットであるべきだ、という話は、整理して考えなくてはならないと考えています。一見、フラットなベンチが増えることが解決策です。少なくとも親切されるものは、そうであってほしい。では、どうしたらそれが叶うのでしょうか。そもそも、排除デザインとは誰かがわざと意地悪なかたちをこしらえて、どこかでしめしめとほくそ笑んでいる、悪意の賜物なのでしょうか。
なにか大きなチカラが働いているような、いないような。これ、多くの人に共有したいなあ。超オススメです。(^^)