「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「光」(土居伸光)

 

「光」という字を見るとは反応レベルで「軍」を右に付けたくなる。「輝」にしたくなる。(笑)

 

さてこの本。すごいわー!!!深いわー!!!今年、出会う本はスゴイ本が多いなあ。もしかしたら、この本は、座右の書になるかもしれない。それくらい静かな衝撃があった。

 

「親友の葬儀に参列したとき、神田は、親友の次女・瞳からメールアドレスを教えてくれと言われた。後日、彼女からメールが届く。遠路、東京から福岡への参列の御礼などの後に、神田が葬儀の間中つねに微笑みを絶やさなかった、棺の中の父の顔を覗き込むときにはその微笑みはいっそう深くなった、その微笑みの意味を教えてくださいと書かれたものだった。そして、彼女はその微笑みに救われたとも書いてきた。なぜ微笑んでいたか、それは七年前に妻の知美を亡くしたことと大きくかかわっていた」そのエッセンスを紹介しよう。

 
・おじさんの穏やかな微笑みを目にしたとき、私はなんだか救われたような気がしたんです。あの微笑みは、決して変な人の微笑みなんかではありませんでした。なぜって、おじさんの微笑みは、父との最期の別れを悲しむ私の心を随分と和らげてくれたからなんです。
 
・僕は苦しみには、本当のものと、本当でないものがあるということを理解するようになっていたのだ。
 
・人は、自分の理解が及ばないことや、想像できないことをすんなりとは受け入れてはくれないものです。
 
「生きるのが楽」になるということと「楽に生きる」ということは違う、ということをまず瞳ちゃんには知ってほしい。
 
充実した人生は「楽に生きる」ことによって得られるものではなく、「本当の苦しみ」を乗り越えることによってしか得られない。
 
・妻の心は、なぜ揺れ動くことがなかったのか?この疑問に対する僕の心はこうだ。妻は、あの夜、自らに対して確固たる意思決定をなしたからだ。心が揺れ動き、悩むのは、本気で意思決定していないからなのだ。
 
・苦しみがやってきたとき、大概の場合、その苦しみを運んできた人やものに対して。避難したり、闘ったり、あるいは無視したりして、問題を解決しようとする。昔の僕がそうだった。
 
苦しみに揺れ動く自分自身の心。それこそが瞳ちゃんにとっての「本当の苦しみ」なのだ。ここから始めないと瞳ちゃんの苦しみは、根本的には解決されることはない。
 
・自分の中にある「本当の苦しみ」を知り、そしてその苦しみを制御できるようになれば如何なる現象がやってきても、もうそのことで傷つくことはないし、苦しみが繰り返されることもなくなっていく。
 
僕にとって意思決定とは、実は自分自身を知ることだったのだ。苦しみを乗り越えるために行う意思決定は。深く自分を知ることなくしてできることではない。これは楽な作業でない。しかし、自分自身を深く知れば知るほど、そこから導かれる意思決定は揺るがないものになっていく
 
・昔の僕は、結果に囚われ過ぎて、やりたいと思いながらやれなかったことが多々あった。しかし、今の僕は違う。結果に囚われることなく、やりたいと思ったことをするようにしている。
 
「まず家を、設計図は後から」「まず生きる。どう生きるかはその後で」
 
・やっとの思いで塔の上に辿り着き、背中を支えてきた手を離した途端、妻の身体がふわりと浮き上がった。引き戻そうと腕を延ばしたが、強い光が僕の視界を遮り、ほんの一瞬、なにも見えなくなった。妻は光の中へとゆっくりと上昇していった。
 
螺旋階段は、一回りすると元の位置に戻ってくる。元の位置に戻ったからといって、そのレベル、高さは一回りしてきた前のものとは違う。同じものを見ていても、少しずつその姿、形は違って見えてくる。こんな風に妻は新しい風景を見ながら変わっていったのだ。
 
苦しみという奴は、こちらから望まなくても勝手にやってくる。土足で人の心の中に踏み込んできて、散々人の心を傷つけた挙句に、後は知らん顔をして去っていく。それもいきなりやってくるので、まったく防ぎようがない。
 
・異論と思われるかもしれないけど「苦しみはすべて自分の中にある」ということを受け入れることができるかどうかが、苦しみから自由になれるかどうかの別れ目となる、と僕は考える。
 
・4つのフィルター
 
1 偶然はない。人としての成長に必要なことはすべて必然で起こる。
 
心はなにを食べているかあなたは知ってる?心はね、私の心は、この私の思いを食べているの。心はとても素直で、好き嫌いというものがなくて、私の思いや考えることをそのまま食べて、それが心の栄養になっていくの。私は心に悪いものばかりを食べさせてしまった」『ガンにでもならない限り、この女はなにも学ばないだろう、と神様が思ったんじゃない。お陰でこれまで見えないものが見えてきたわ』
 
自分の内にあるものが、外に現象化する。言い換えれば。自分の中にある「本当の苦しみ」を気づかせるために、それに見合った形となって、その苦しみは外に現象化するだけなのだ。僕はそう考えるようになった。だから「偶然はない」のだ。良いことも、悪いことも、すべて自分の中にあるものだから、ぶれることなくあるがままに受け入れればいいのだ。それが自然な生き方だと思っている。だから、悪いことが起こったからといって、自分を責める必要もない。
 
苦しみを、偶然と捉えて無視してはならない。苦しみを無視すれば、あるいは逃げれば楽かもしれない。しかし、それは一時的な楽しかもたらさない。「楽に生きる」ということは、苦しみを見ないことなのだ。辛いことかもしれないが、苦しみから自由になるには、苦しみと向き合い、乗り越えていくしかないのだ。苦しみを乗り越えた先には、真の意味での喜びが鎮座している、僕は信じている。
 
2 未来の不安に生きない。今を生きる。
 
人は未来に対して夢や希望を抱いたとしても、その未来に不安を抱いてしまうことがある。未来の不安があるからこそ、夢と希望をしっかりと持ち、今を生きるべきだと僕は考えるのだ。「昔は良かった。これからどうなるんだろう」という言葉が瞳ちゃんの口から出てきたら、瞳ちゃんは今の大切さを忘れ、過去の後悔と未来の不安に生きていることになる。
 
3 被害者意識を持たない
 
人は被害者意識を持つようになると、ラ行の受身形を多用するようになる。「叱られた」「泣かされた」「騙された」「盗まれた」「振られた」「傷つけられた」「首を切られた」「殺された」など。
 
「叱られた」→「叱っていただいた」、「騙された」→「騙していただいた」「恋人に振られた」→「振っていただいた」。「病気にしていただいた」悲しむでもなく、怒るでもなく、妻はそう呟いた。
 
景気が悪い昨今。瞳ちゃんの会社でも「上司に怒られた」「残業させられた」「降格させられた」「給料を減らされた」「首を切られた」といったラ行の受身形が飛び交っているのではないだろうか。言い換えているうちに、ついつい可笑しくなってしまうことがあるからだ。心の中でラ行の受身形を変換する術を身につけることができたお陰で、自然と心の中で笑みを浮かべることができるようになった。そして以前と比べて傷つくことが少なくなった。
 
4 自分の考えや価値観を掴まない、囚われない。
 
苦しみには役割があるのだ。その役割は、人に「喜び」を与えることなのだ。しかし「喜び」にはふたつある苦しみを受け入れることにで手に入れる「喜び」と、苦しみから目を逸らせ、楽に走った上で入れる「喜び」がある。前者は、人を成長させるが、後者はそうではない。
 
人間を成長させる大事なものは、苦しみの中に隠してあると確信した。苦しみを喜びに変換する力で、それは人間にとって宝物となるものなのだ。
 
・妻が亡くなる二日前、彼女は僕にこう言った。「私の今の望みは、ひとつだけ。元気になって、歳をとったら、私はあなたと手を繋いで歩きたい。それだけで私は幸せ」そう言って彼女は微笑んだ。
 
・「プロポーズされた」→「プロポーズしていただいた」
 
今度は悲しみではなく、喜びの真っ只中にいる僕のところに「それ」はやってきた。この感触は、決して僕が忘れてはならないものなのだ。僕の左の掌がこれまでにも増して温かくなってきた。僕は力を込めてその掌を握りしめ、そっと僕の胸へと引き寄せた。瞳ちゃんには書かなかったことがある。「それ」の正体だ。僕には分かっていた。
 

このタイミングでこの本に出会えてよかった。噛み締めて心に刻みたい。超オススメです。(^^)