「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「背番号への愛着」(竹中半平)


この本、ようやく探しました!1978(昭和53)年発行かあ。ワタシが中二、14歳、野球をやっていた頃だなあ!横浜図書館で見つけちゃいました!♪


プロ野球草創期からセ・パ両リーグに分かれるくらいまでの時代の選手を背番号を通して解説。沢村栄治スタルヒン川上哲治から今では全く語られない選手達。今のプロ野球の隆盛はこれらの選手たちのおかげだね。そのエッセンスを紹介しよう。

 
・単なる番号としてでなく、ユニフォームにつけられた背番号をわが国のファンが初めてみたのは昭和六年に読売新聞が企画した第一回日米野球と称する試合からで、アメリカの選手中には有名な鉄腕投手グローヴや強打の名捕手ミッキー・カクレン一塁手ルー・ゲーリッグなど錚々たる連中がいた。ベーブ・ルースを看板とした昭和九年の日米野球を第二回と呼んだが、実際には明治四十一(1908)年以来何回も来ている。
 
長嶋茂雄の出現によってその現役時代の背番号3は「栄光の背番号」となり今や既に不滅のものとなっったら、戦後の一リーグ時代の少年ファンに「3番は誰?」と問うたなら言下に「大下、千葉、小鶴」という答えが返ってきただろう。古いプロ野球のファンなら必ずや中島、岡田(宗芳、大阪タイガース)石田(政良、中日、石田光彦=阪急)を挙げるであろう。3番時代の中島治康は実によく打った。戦後のファンは青田や岩本のガムシャラさをいうが、全盛期の中島のバットには憑きものがしているか思う位で、触れたボールは悉くライナーとなって飛んで行った。
 
 
16番と言えば、巨人の川上哲治にトドメを指す。16番が川上か、川上が16番か、であった。終戦後の圧倒的人気をあつめたプロ野球で、大下、小鶴、藤村等は背番号なしでも話が出来る。しかし川上となると、絶対に16番と切り離して考えられないから妙だ。川上の16番は彼の復帰前に一時であったが水野忠彦がつけていた。それにもかかわらずこの16番は何だか大昔から川上のものだったような気がして来る。この特別な印象は何によって生じたものだろうか。
 
沢村の14番!!不世出の大投手沢村!プロ野球は沢村によって誕生した。プロの今日は沢村栄治の功績だ、言っても決して過言ではないと私は信じている。あの頃は、沢村だけを見に行って、それが病みつきになって、熱心なプロ野球ファンになったものが相当にある。私などもその一人だったかも知れない。
 
・私がこの稿に筆を執ったはじめは、戦前に活躍した選手のみを対象として簡単に切り上げるつもりでいたが、書きつづけて行く中に、戦後の新しい選手達のことにも話が拡がることもあり、終戦直後に突如として現れた大立物としてどうしても抜かすことの出来ぬ一人の選手について述べておきたい。
 
戦後プロ野球の休息な発展の功労者は誰か?第二次セネタース以来の不変の背番号3番大下弘であると断言して私は憚らない。藤村も、鶴岡も千葉、川上、藤本も、その実力に於ては決して大下に劣るものではないが、大下はビルディングの鉄骨であり、他の人々はコンクリートの壁であり、屋根である。終戦後の二年間に大下が打ち立てた功績は、彼自身意識するとせぬに拘らず燦然たる光を放っている。戦時中の明大にいた無名の大下が、あれ程の大選手になると想像したものが一人でもあっただろうか。
 
やっぱり大下で締めくくるのかあ!明治大学の大先輩!生で観たかったなあ!野球ファン必読。入手困難かもしれないけどオススメです。(^^)