「ヒミツ」「秘密」「裏」「禁」などのコトバに惹きつけられるよね。真実は表ではなくて「裏」にあるような気がするよね。(^^)
さてこの本。タイトルに惹かれるじゃあーりませんか!?
「幕末、厳しい監視の目をかいくぐり、他国へ密航を図る者たちが少なからず存在した。発覚すれば死罪とされる中、外国の進んだ知識や技術に直接触れるには、危険な渡海しか途(みち)はなかったのだ。本書では、伊藤博文、井上馨などの長州ファイブ、五代友厚らの薩摩スチューデント、同志社設立の新島襄などの、近代日本に功績のある人物をメインに取り上げ、彼らの密航実現までのプロセスをたどり、最大のヤマ場である脱国当日の動きを検証した。 国外脱出を企てた者たちの本懐達成に至るまでには、いずれも興味深いドラマが秘められている」そのエッセンスを紹介しよう。
・平成二十五年秋、長崎県対馬で、図らずもこれまでの「江戸時代は鎖国」という認識を根底から覆す史実があったことを知り、仰天した。対馬歴史民俗資料館の展示コーナーで「江戸時代、対馬藩が朝鮮半島の釜山に設置した外構や貿易などをつかさどる出先機関を描いたもの」と記されていた。(まさか!鎖国体制のもとで、国内に日本の出先期間が置かれていたとは、いったいどういうことなんだ!)
・江戸時代の対外交易は、ここ対馬藩ばかりでなく薩摩藩(琉球経由での対中国)や松前藩(蝦夷地でのアイヌを含む対北方民族)でも行われており、幕府直轄の長崎・出島を含め、これら四か所の窓口を歴史学では「四口」とか「四つの口」と呼ぶということも知った。研究者の間で「鎖国」という表現の使用を控える動きが主流になっている。つまり対外歴研究の見直しの結果、江戸時代の日本は、あたかも貝のごとくじっと殻に閉じこもり、外界との接触を断っていた“閉ざされた国”ではなかった”いうことである。
・密かに海外へ渡航を企てる、いわゆる密航者も少なからず存在した。幕末期に急増したのだ。それは開国後、欧米諸国からヒト・モノ・情報がどっと国内に流れ込んで来ると、それらに接した日本人の中から、是が非でも現地へ行き、進んだ文物制度に触れてみたい、先進知識や技術を習得したいと考える者が続出したからで。彼らは在留外国人の協力を経て国外脱出を図った。
・本書ではこのような国禁に背くさまざまな行為の中で、幕末の密航を取り上げる。国を出るのも戻るのも、発覚すれば死罪とされる中。危険を顧みず彼らに密航を決断させた動機とは何であったのか、手助けしてくれる仲介者をどのように見つけ出し、話をまとめたのか、渡航費用をはじめ現地での生活費や学費をどう工面したのかなど、それぞれの密航実現に至るまでのプロセスをたどり、最大のヤマ場である脱穀当日の動きを細かく検証した。いずれも興味深い人間ドラマが秘められていた。
・密航に成功した者たちは出国時こそ国家の「重罪人」とされたが、異国での学術修行を終えて帰国すると、申請日本では一転して「洋行帰りの知識人」と、もてはやされ、各分野の指導敵立場に就いて手腕をふるった。その意味で、初期密航者たちが明治の礎となったといっても過言ではない。
・一方、長州藩の吉田松陰のように密航に失敗し、無念の涙を流した者たちも少なからずいた。また加賀の豪商、銭屋五兵衛や長崎の女傑商人、大浦慶たちについては今なお密航伝説が語り継がれている。こうした密航にまつわる余話もあわせて紹介する。
・グループ密航者を出した藩を挙げると、薩摩、佐賀、熊本、柳川、久留米、土佐、宇和島、長州、広島、加賀などで、このうち加賀を除けば、ほとんどが西日本の諸藩で占められていた。一方、単独密航を企てた者たちの出身地は、東京、埼玉、静岡、新潟、福井、岐阜など東日本各地に分散しており、グループ密航者とは対照的である。これら密航者のうち欧米など遠隔地をめざした者については、ほぼ特定でき、その人数は約五十名である。
・国内にいて悶々鬱々としながら空しく日々を送るより、いっそ国禁を冒してでも外国へ行って見聞を広め、進んだ知識や技術を習得して帰国後、それを国のために役立てようと考えた。そこには知への強い渇望と高い志がうかがえる。厳しい制約の下で熱き思いをたぎらせ、決死の覚悟で波濤万里(はとうばんり)を超えて行った当時の密航留学生の一途な行動がから見習うべきものもあるのではと思う。
「長州ファイブの深夜の脱国劇(イギリス)」「タスマニア島の石碑・銭屋五兵衛(オーストラリア)」「女傑商人のインド、上海密航・大浦慶(インド・清)」など。
いいなあ。ドラマチックだなあ。この時代のことを知るとモチベーションが上がるよね。オススメです。(^^)