「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「極夜行」(角幡唯介)

 
冒険家、角幡唯介さんの本はスゴい。感動してしまう。一生に一度の人生、自分ができることって限られているから、自分にはできない体験をして、それを文章にして書籍として残してくれているので、追体験ができる。ありがたいなあ。
 
この本は、著者の最高傑作ともいえる本。
探検家にとっていまや、世界中どこを探しても”未知の空間“を見つけることは難しい。大学時代から、様々な未知の空間を追い求めて旅をしてきた角幡唯介は、この数年冬になると北極に出かけていた。そこには、極夜という暗闇に閉ざされた未知の空間があるからだ。極夜――「それは太陽が地平線の下に沈んで姿を見せない、長い、長い漆黒の夜である。そして、その漆黒の夜は場所によっては3カ月から4カ月、極端な場所では半年も続くところもある」(本文より)。彼は、そこに行って、太陽を見ない数カ月を過ごした時、自分が何を思い、どのように変化するのかを知りたかった。その行為はまだ誰も成し遂げていない”未知“の探検といってよかった。ノンフィクション界のトップランナーによる最高傑作。ヤフーニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞、W受賞!」そのエッセンスを紹介しよう。
 
「お前は太陽から来たのか。月から来たのか」この名も知らぬイヌイットが二百年前に不用意に発した言葉は、今になって思えば私という人間の人生に大きな意味をもつものとなった。というのも、私が冬のシオラパルクというこの北の最果ての暗黒の地に来たのは、彼らが見ていたような本物の太陽や本物の月を私も見てみたかったからだ。
 
先史人や古代人はこうした本物の太陽をリアルに、あるがままに皮膚と五感で感じ取っていたはずだ。世界中の創世神話は太陽や月の話で満ちている。古代人は太陽に生かされ、太陽に殺され、太陽に感謝し、太陽を呪うことができたが、私たちはー少なくとも私はー所詮太陽の光によって生かされている有機化合物の集合体にすぎないくせに、その産みの親といえる太陽にたいして気の利いた言葉のひとつかけたことさえなかったのだ。そして太陽と同じように私たちは月を喪い、星を喪い、闇をも喪ったのである。
 
私は極夜にひきつけられたのだった。気になってしょうがなかった。太陽のない長い夜?いったいそこはどんな世界なのだろう。そんな長い暗闇で長期間旅をしたら気でも狂うのではないか。そして何より最大の謎、極夜の果てに昇る最初の太陽を見たとき、人は何を思うのかー
 
太陽があることが当たり前すぎていて、太陽のありがたみすら忘れ去られてしまった現代社会。人工灯におおわれて闇を駆逐し、闇の恐ろしさすら分からなくなってしまった現代社会。もし、この数ヶ月におよぶ暗黒世界を旅して、そしてその果に昇る太陽を見ることができれば、私は夜と太陽、しや、それをつきぬけて闇と光の何たるかを知ることになるのではないか。私が世界最北の村シオラパルクにやってきたのはそんな思いがあったからだ。
 
・「探検というのは要するに人間社会のシステムの外側に出る活動です。冬の太陽が昇らない長い極夜という観点で見れば、そこには新しい未知が生まれる。太陽が昇らない世界というは想像を絶するわけで、そこのぼくは根源的な未知の可能性を感じるんです。だって四ヶ月もつづく夜の世界なんて考えられなくないですか?たぶん極夜の世界に出たら、現代人が失ってしまった自然との基本的な結びつきを再発見できると思います。人間存在にとって星とはなにか、月とはなにか、あるいは闇の強さや光のありがたさとか。もしかしたら、それは古代人の世界に舞い戻るということなのかもしれない。」
 
・その瞬間、強烈な眩さに私は顔をしかめた。テントの前で巨大な太陽が赤々と燃えていた。地面では地吹雪が吹き抜け、白くかすんだ大地の向こうで太陽が登っていた。その太陽が巨大に丸かった。唖然とするほど巨大だった。こんな太陽は今まで見たことがなかった。フレアする巨大な火の玉だった。「わああ……すげえ……太陽だぁ……」私は子供のような、呆けた声を漏らした。光が私を照らし、私はそれを温かいと思った。すごい、でかい、あったかい。物資の状態を示す、これら幼児語レベルの三つのシンプルな形容詞以外この太陽に対してはいかなる言葉も無効だった。太陽な太陽として、あるがままの姿でそこにあった。
 
太陽の太陽性は、どんな言葉に変換しても、とても汲み尽くせるものではなかった。すべての言葉をはねつけ、太陽は超然と空に君臨し、質量が地球の三十三万倍ある単なる物体として猛り盛り、とくに意図もなく光を放出しまくっていた。そして私はそのような太陽にただ圧倒され、涙を浮かべていた。
 
まったくすべてが想定外だった。この太陽は、きっとあの太陽だった。百五十年前のイヌイット「太陽から来たのか、月からきたのか」と言ったときの、あの太陽だった。物体が輪郭を失い、あらゆるものが融合してどろどろにとけあって一体化したような闇のカオスを終わらせ、世界に秩序と言葉と意味をもたらす太陽だった。長い長い暗闇の旅路の果てに昇った太陽、おそるべき嵐に耐えて見ることができた太陽、すべての準備、すべての苦労、絶望、驚愕、歓喜、呆然が、この太陽を見るためにあったことを、私は知った。それは私の人生で出生以来二度目の本物の光であり、そしてもう二度と見ることのできない素晴らしい太陽だった。こんなすごい太陽を見られるとは思ってもみなかった。たしかにこのとき私は太陽を見たのだ。

 

すごいなあ……文章を読んでて、自分も体験したような気分になってしまった。太陽ってありがたいなあ!こんな経験をして本にしてくれてありがとうございます!超オススメです。(^^)♪

 

 

これらの本も再読したいなあ。(^^)

 

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