以前、このブログで紹介したこの本。コレね。(・∀・)
あまりにナットクすることが多かったので、その2として取り上げます。「生と死」について実に考えさせられる。そのエッセンスを紹介しよう。
「死が傍らにある村」
世界最北の村シオラパルク。 グリーンランドの北部のイヌイット社会は、 カナダのそれとはまったく別の、 どこか異様ともいえるインパクトがあった。何が強烈だったか、 というと、まず暗いことである。太陽が昇らず一日中夜なので、 純粋に物理的な明暗の問題として暗いという意味である。 冬は極夜、夏は白夜となる。
・ シオラパルクの人たちがつかう犬橇は狩猟のための移動手段である 。まだれっきとした人びとの足として機能している。 村の犬は完全に労働犬だ。 犬橇で出るとき以外は散歩に連れて行ってもらえない、 繋がれっぱなしでる。餌も不十分で、多くがやせ細り、 そしてつねに飢えている。日本の愛玩犬と比べたら、 その境遇には天と地の差がある。
・シオラパルク、カナック、 ケケッタという周辺三集落の人口を全部あわせてもせいぜい、六、 七百人程度。だが若者の自殺は後を絶たない。 鬱傾向や引きこもりとか、わかりやすい要因があるわけではなく、 どこにでもいる普通の若者が、いきなり死ぬ。 なぜ自殺するのかよくわからない、といったケースが多い。
・イヌイットがこの極寒、暗黒という極限環境で生き残り、 文化を伝えることができたのは、 犬橇と狩猟という手段を持っていたからだ。 そして彼らはその自らの歴史と伝統にひとかたならぬ誇りと愛着を 持っている。犬がいることで、 彼らは生き抜くことができたのであり、 犬は彼らの実存の大きな部分を占めている。実際、 彼らが何のために狩猟をしているかというと、 その大部分は犬を養うためである。何千年、 あるいは一万人以上にわたって犬を飼い慣らしてきたが、 同時にそれは彼らが犬に飼いならされてきた時間でもあった。
・ 狩猟民であるイヌイットの集落は日常的に動物の死に取り囲まれた 環境にある。死は単なる死としてそこにあるのではなく、 それは人びとの生に、文字どおり目に見えるかたちで、 村人の命につながっている。 動物の肉を食することで自分たちの生存が可能となることが、 その動物の死が自分の生に転換するプロセスが、 ほとんど可視化されている。つまり動物の死とおのれの生が、 ここでは露骨に地つづきだ。
・負い目とは、生きるためとはいえ、 人間がこのような大きな動物を殺すことは赦されるのか、 赦されるとするならそれはなぜなのか、 という生にまつわる負い目だ。
・自分の手で動物を殺すとき、 あるいは動物が殺されているシーンを見たうえでその肉を食べて生 活するとき、 感覚的にその動物は自分たちに親しい存在に感じられる。 村中にあふれる動物の死は、人間の死か、人間の縁類の死である。 生きてきたものを殺し、それを食して自らが生きる。 それが日常の風景のなかに溶けこむとき、 生と死の境界は曖昧になり、彼岸と此岸は往来可能なものになる。
・スーパーにならぶビニールパックされた肉類は、 歯につらなる不浄な要素が排除された、 あくまで清潔で安全な商品だ。死が排除されているということは、 食肉となる前に生きていた痕跡も除去されているということである 。死をとおして生を語ることができない、ということである。
・文明社会では死を不浄なものとみなして隠蔽し、 それを感じることがないようにし、 死を感じることがない状態が心地よい状態であり福祉にかなったこ とである、とのある種の倒錯した価値観を作り上げた。
・生き物を食べるということは、とりもなおさず、 その生き物を誰かが殺すということである。 それはイヌイットの狩猟社会でも、われわれの社会でも同じだ。 ちがうのは誰がその殺しを引きうけるかである。 要するにわれわれの食とは動物の命を無視し、存在を抹消して、 ただ栄養分として、 美味しいものとしてだけ摂取しているにすぎず、 生と死が完全に断絶している。 これは見方によっては食される動物にたいしてひどく無礼な態度だ 。シオラパルクでは死は生はから分断されておらず、 隠蔽されておらず、生との境界線を曖昧に残したまま、ただ、 そこにある。だから死はタブーではないし、不浄なものでもなく、 また同時に、とくに厳粛にあつかうものでもない。
実に考えさせられる。今年、再度読んで、深く懐に刻みたい。超オススメです。(・∀・)