「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「狩りの思考法」(角幡唯介)

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いや〜いい本に出会いました〜!早くも今年のベスト10入りは間違いないねえ。読み終わるのが惜しいと思った本に出会ったのは久しぶりだなあ〜!(・∀・) 我々がいかに「ボーッと生きている」ことに気付かされる。チコちゃんに叱られそうだ!(笑)
 
 
「年間のおよそ半分をグリーンランド極北のイヌイットの村・シオラパルクで過ごし、伝統的な犬ぞり移動と狩猟による食料調達での漂泊旅行を積み重ねて実感した、厳しい自然や予測困難な未来、生と死に向き合う思考法をつづるエッセー」あまりに濃い内容なので何回かに分けて紹介しよう。まずはこれから。
 
 
「コロナ以後と未来予測」
 
グリーンランドとカナダをへだてる海峡。南からスミス海峡、ケーン海盆、ケネディ海峡、ロブソン海峡と名を変えながら、北緯82度から78度にかけての約500キロを南北につらぬく、それはまぎれもなく世界最北の海峡である。世界最北ということは、基本的には冬になるとガチガチに凍るということだ。ところが温暖化のせいか、近年は凍らないことがある。
 
グリーンランドで活動するようになって以来、私は、毎年のようにこの海峡沿岸および周辺の陸地で旅を続け。活動領域を効率よく移動できるようになり、もっと遠くへ行くことができる。さらに高い機動力を手にいれるべく人力橇から犬橇に移動手段を変え、その技術習得につとめてきた。ところが海が凍らなくなりはじめた…。これは由々しき事態だった。十頭からの犬を維持するのだけでも年間百万円以上かかるし、犬橇の連載話も某誌ともつけてしまっており、投資先が焦げつくようなものなのだ。
 
私のやりたいのは明確な目的地を決めた到達至上主義的な旅ではなく、狩りの結果次第で行き先や展開がかわる漂泊だ。組織だった遠征ではなく、あくまで個人旅行であることにこだわり、そのうえで北極を極限までうろつく
 
・ところが昨年12月の年の瀬のこと。コロナウィルスのせいで、カナダ政府から入国許可が取り消された。ネットを自由に使える環境になく、ニュースはおろかテレビもない、唯一の情報源は妻との電話だけだった。取り消し通知を聞いたとき、私はまず、その決定の理不尽さに憮然とした。なぜ理不尽なのだ。それは私が行こうとしたところに人間は存在しないからだ。集落は一切存在しない、だから人間は存在しない。要するに、よしんば私がコロナウィルスを保持していたとしても、伝染させる相手のいない場所なのである。さらにいえば人間がもしいたとしても、伝染のおそれはないはずだ。
 
・仮にシオラパルクで感染したとして、国境付近までは距離にして400キロ前後、到着まで村から二週間以上かかる。もしウィルスに感染したとそても国境に着くまでには発病し、死ぬか恢復するかしているはずで、衣類や装備に付着したウィルスもその間に死に絶えるか吹き飛ばさるかして、一掃されているし、発病したとしてもそれはグリーンランド側の話であり、カナダ側ではありえない。
 
・妻は「あなたは今、世界で一番安全な場所にいる」と言った。どういう意味か。そんなわけはない。馬鹿にしてんのか。なぜなら、いくら旅慣れた土地とはいえ、私が向かおうとしている地域はなんといっても人跡稀な地であり、その意味で危険をあげればキリがないからである。一番危険なのが、犬橇単独独行という私の旅のスタイルだ。イヌイットは犬橇で長期の一人旅をしない。なぜか?危険だから、効率が悪いからである。ひとりの犬橇の旅、犬の暴走、白熊の危険、氷に関係するリスクなど、北極の旅では危険が周囲に満ちあふれているわけで、仮に都会暮らしでコロナ感染の危険があるといっても、北極の犬橇一人旅と、コロナ流行下の東京でどちらが死ぬ可能性が高いかといえば、どう考えても犬橇一人旅である。
 
では妻の言葉が間違っているのとも違う。「あなたは今、世界で一番安全な場所にいる」という言葉には、つよい説得力をおぼえた。はたしてこれはどういうことだ。
 
安全とは何なのか。安全とは日常という言葉と関連のある概念なのではないか。日常とは安全が担保された時間の流れなのではないか。というのも安全こそ日常の本質だと思われるからである。とくに日本の、現代社会では、それが言えるのではないか。今、もっともつよく求めているもの、それは安全である。街中のいたるところに監視カメラがあり、自分の行動や自由が抑制されるが、その存在を歓迎するのは、監視カメラがあったほうが安全になると感じるからである。
 
安全というのは要するに未来にたいしての期待なのだ。だがちょっと待ってもらいたい。少し考えればわかるとおり、これはおかしな話である。なぜなら未来がどうなるかなんて、誰にも絶対にわからないことだからだ。未来は本質的に謎だ。未来を正確に予知することは不可能である。きわめて漠然と、明日も自分は死んでいないとみなしている。どうしてこんないい加減な認識が成り立つのだろう。このいい加減な根拠なき確信をよすがに、明日行こうに何をするかまで考えているのだ。じつに奇妙なことである。
 
きっと私はあと一秒は死なない。一秒がOKなら、論理的にはそれを一分に伸ばし、一時間に伸ばしても、一日でも、一ヶ月は死なないと考えると決して不自然ではない。とこのように死なないはずだと考えられる時間はどんどん先に延長されてゆき、あと十年、二十年は大丈夫では、となり、挙句の果ては人生百年時代などというスローガンが現実味をおびてくる。そう考えると、妻が言った安全の意味を次のように理解できるようになる。つまり日常における安全とは単に危険のない状態のことではなく、それは未来予測のことなのだ。真の現実は混沌としており、明日死ぬかもしれない修羅場ではあるが、ひとたび未来予測をもつことができれば、この阿修羅はびこる無秩序な六道輪廻は、あたかも魔法にかかったかのように、明日もきっと生きているにちがいないという秩序だったコスモスにおきかわる。未来予測こそわれわれ人類の生きるよすがすなわち存立基盤である。これが崩壊すると存在すること自体がつらくなってしまう。ここまでくると「あなたは今、世界で一番安全な場所にいる」という妻の言葉の意味がだいぶ見えてくる。
 
よく考えたら、別にコロナがなくても私は明日死ぬかも知れないのではなかったか?
 
・日常は未来予測により死をみないようにできる時間。その連なりだったのに、その見たくもなかった明日死ぬかもしれないという修羅場、隠蔽していた真の無秩序な現実、これが封印を解かれてむき出しになってしまった。日常の非日常への転換。これが〈コロナ以後〉の本質だ。そのような非日常は本来、日常空間を飛び出してその外側に広がる渾沌にむかう冒険者がめざすべき世界だったはずだ。ところがその日常的空間が、今やコロナで非日常に転換し、明日をも読めない。その一方で非日常をめざしたはずの私あ、従来の予定どおり犬橇の旅に出発しているのである。
 
生と死を読みながら考えました。これはスゴイ!!!まだ完読したいないのに紹介したのははじめてかも。超オススメです。(・∀・)

 

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