最近、ハマりつつある角幡唯介さんの本。読みながら考えて、考えながら読んでいるので時間をかけて噛み締めて読んでいる。この本も紹介したいメッセージがいっぱいあるので、第二弾のエッセンスを紹介しよう。これはワタシも常々、考えていることだからだ。(・∀・)
・事態が立ち上がるきっかけは偶然の出来事であり、そこから発生する他社との関わりである。大事なのは関わることであり、いかに他社との関わりを深めるかが、じつは今の私の探検の大きなモチーフになっている。といっても、私の探検は人間がいない荒野が対象なので、関わる相手も人間ではなく土地や動物なのだ が……。
・北極の旅で私が感じたのは衛星電話よりGPSにたいする違和感だった。冒険においては最初から最後まで自力で行うのが理想だ。行動中に発生する困難や危機的状況に自分の判断で対処し、乗り越える。自分の力で行動を統御し、命を管理して目的を遂行することで、その行動を可能なかぎり自分の色で染め上げる。自力こそ冒険が真の冒険になりうる唯一の道だ。しかし衛星電話は冒険の自力性を侵害する。これにたいしてGPSの罪悪はやや複雑でわかりにくい。自分はいま極地にいるのに、その「極地性」とは関係のないところで、素早く、下手をすると右手で夕飯の準備でもしながら左手で現在位置を測定することができる。GPSはおのれと対象を切断する。
・カーナビという機械は、私が何の作業をしなくても答えを全部おしえてくれてしまう。だからそんな必要もないので、私の意識は外の事物にむかわないし、意識がむかわないので外界の方もランドマークとしての反応を示さない。その土地を走っているのに、その土地にいないも同然の状態となる のである。
・目的に到達することだけを優先し、到達するまでのプロセスは無意味であると切り捨てたとき、人は自分では気づかない重要な何かをうしなっている。便利であるということは、言いかえれば、目的を達成するまでの労力を省くということ である。これは要するに時間と空間に自分自身が関わるプロセスそのものである。
・電話が発明されて手紙が、電子メールが登場して、電話をかけるプロセスも省略された。通信できる人間の数という観点から見ると達成度が飛躍的に高まったことに議論の余地はない。しかしそれは、達成度という数量化可能な点に見方をかぎっただけの話だ 、ともいえる。電話をかけるという行為のなかにたしかに存在した、相手のことを考え、気遣い、配慮するという志向性はうすくなった。相手の生の声をきき、生の感情にぶつかって用件をつたえないといけない。生の感情はときに不快で、煩わしさをおぼえるが、それによってはじめて相手がどんな人間かがわかるという、相互理解の道も開ける。だが、メールやSNSで効率よく大量に人と連絡を取りあうようになると、こうした時間とプロセスは省略される。 相手がどんな人間だからよくわからないまま業務上の連絡を取りあうという状況は、その土地を走っているのにその土地にいないも同然という、カーナビのおける世界からの遊離現象とどこか似ていないだろうか?
・SNSの隆盛で人間関係は手軽で替えのきくものとなり、人工授精技術で肉体的に交接しなくても生殖することが可能となった。はっきり言って現代社会は何もしなくても生きていくことのできる社会に急速に移行しつつある。 しかし何も行為せず、自分以外の何ものかと関わる機会を失えば、変化と発見がもたらす生のダイナミズムを経験することもできなくなり、人間は死ぬまで時間を引きのばしたおそるべき虚無の闇と化すほかない。
・テクノロジー依存をつきつめれば、人間は外の世界に関わることなどできなくなるし、内なる世界にたいしてさえも主体的に知覚し、認知することをしなくなる。ただ情報を受動的に受け取るだけの存在となる。あらゆる関与から締め出され、ただ息をするだけの存在となったとき、人間は何をもって人間ということができるのだろう。
いや〜深い、実に深い。この本について語りたいなあ。読書会をやりたいなあ。角幡唯介さん、いいわー。すごいわー。超オススメです。(・∀・)