「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

COLUMN〜「作詞家50年 僕が出会った天才作曲家たち」(松本隆・文藝春秋2021年5月号)

 

 

最近、むさぼるように読んでいる、作詞家の松本隆の本。なにかワタシのココロの中で何か、求めるんだろうなあ!(^o^) ある本に文藝春秋の2021年5月号に掲載された文章
『作詞家50年 僕が出会った天才作曲家たち』のタイトルを見て、気になって気になって、を読みたくて読みたくて、図書館を探しまくりました。(笑)そのエッセンスを紹介しましょう。

 

・いまでは当たり前のように思う人も多いと思いますが、当時はプロの音楽家のなかにもロックには英語しかあわないと考える人も多かった内田裕也さんなんかがその代表で、デビュー直後くらいに座談会に呼び出されて、けちょんけちょんに批判された。向こうは30過ぎで、すでに実績もある音楽業界のボス。こっちは20歳くらいの若僧ですよ。お前らが音楽雑誌で1位になったのが気に入らないとか言って。「日本語ロック論争」なんて言われていたけど、論争でもなんでもないただの吊し上げ(笑)。ずいぶんと大人げないことをしていたんです。

 でも、いまは日本語でロックを歌うのが当たり前になっている。僕らは、「日本の音楽を変える」と予告して、そのとおりのホームランを打った。アンチの人がなにを言おうと、「君たち、僕らの風呂敷の上に乗っているよ」と言いたい。僕ら「はっぴいえんど」は、間違いなく日本の音楽を変えることに成功したんです。

・バンド時代から、いずれは専業の作詞家になりたいという思いは持っていました。ある音楽雑誌の編集長にその話をしたら、「そんな甘いもんじゃない」と言われましたけど、自信のようなものはあった。それにせっかく音楽の仕事をするなら、ど真ん中でやってみたいと思ったんです。いまはシンガーソングライターが全盛の時代ですが、当時の音楽業界で真ん中に行くには作曲家、作詞家のどちらかになるしかなかったんです。

解散後に3人くらいの友だちに「作詞家になりたいんだけど、仕事があったら紹介してほしい」と相談して、最初にきたのがチューリップの作詞の仕事でした。「心の旅」がヒットしたけど、その第2弾に悩んでいると。それで書いたのが「夏色のおもいで」(73年)という曲です。そのあとはアグネス・チャンのアルバム用に2曲書いたら「ポケットいっぱいの秘密」(74年)という曲がシングルカットされることになった。それで少しずつ仕事が入るようになりました。

 そのころははっぴいえんど時代の延長で、“売れる詞”ということは考えられませんでした。でも「これで売れるのかな」と半信半疑で書いた「夏色のおもいで」の詞に目をつけてくれた人がいたんです。当時「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また葦う日まで」と立て続けにヒットを飛ばしていた歌謡界の帝王、筒美京平さんです。

・京平さんはすでに歌謡界の帝王だったけど、僕から見るとそれは“旧”歌謡界。僕はサブカルチャーの出身だから、京平さんにとってはある種の異物だったと思います。でも異物なものが掛け合わされたからこそ、それまでにない新しいものが生まれた。僕の作詞家人生にとって京平さんとの出会いはすごく大きな出来事だったけど、それは京平さんにとっても同じだったんじゃないかと思います。京平さんに怒られるかもしれないけど、僕という作詞家に出会ったことで、筒美京平という作曲家は変わることができたし、そのぶん長くヒットメーカーでいられたのではないかと思っています。

・どんな刃物でも使っていないと刃先が丸くなって切れなくなるもの。でも筒美京平という作曲家の切れ味は、時間を経てもまったく変わっていなかったスパッと切れそうなメロディ「やっぱりこの人はすごいな」と改めて感じたのがあの曲、しょこたん中川翔子)の「綺麗ア・ラ・モードでした。

・あのころは、まだ若かったから、しんどいながらも充実もしていたし、楽しさも感じていましたね。きつかったのは、毎週売上のランキングが発表されること。1位になって当たり前で、調子が悪いと2位、3位。永久に試験休みのない試験が続いている感じ。それが辛いか充実しているかは人によるよね。でもまあ、あんな生活をよく続けていたと思います(笑)。

阿久悠さんと僕との決定的な違いは、阿久さんが広告代理店の出身であることに対して、僕が音楽業界出身だったこと。広告代理店や放送作家から作詞家になった人は、「ヒット商品」を作るのがうまい。彼らにとって音楽性は二の次なんです。でも僕は音楽業界の人間だから、やっぱり“いい音楽”を作りたい。いい曲さえ作れば、必ずヒットすると信じていました。

細野さんは、生まれながらの天才です。誰もかなわないと思う。常に自分がなにをやればいいかを把握していて、そのとおりに動いている。出会った瞬間に「ああ、この人は天才だ」と直感しました。振り返ると、僕のまわりには昔から天才が集まってくるんです。大瀧さんは努力の天才。ビートルズも手掛けた60年代の大プロデューサー、フィル・スペクターにとことん憧れ、徹底的にパクった。中途半端なパクリではなく、本家を凌ぐほどのサウンドを作り上げたこと。

鈴木茂は、ギターを弾いていれば天才(笑)。彼がすごいのは、単身アメリカに渡ってレコーディングしたこと。本当にひとりでアメリカに行って当時のトップミュージシャンたちと『BAND WAGON』(75年)を作った。当時はFAXがなかったからやり取りは全部国際電話。一曲15万円くらいかかっていたと思います。砂の女という曲が好きです。もちろん曲を聴かないまま作った詞ですけどね。(笑)

ユーミンと出会ったのは、1970年11月15日、三島由紀夫が自決した日。事務所に遊びに来ていた女子高生がユーミン16歳くらいかな。その頃はかわいかったんですよ。(笑)最初に仕事をしたのは太田裕美「袋小路」。名曲なんですよ。詞もいい。(笑)太田裕美も好きな曲みたいで、ライブでよく歌っています。

・聖子さんの曲でいちばん好きなのは瞳はダイアモンド。あの曲は、なにかに負けそうになったときに聴くと、元気が出て立ち直れる。本当に落ち込んでいるときは、がんばれないから、みんなが元気になれるような失恋ソングが書けたのではないかと思っています。聖子さんとユーミンは、明るく華やかなメジャー感があうんです。この50年間、いろいろなスターを見てきましたが、実際に会うと内向的な人が多いんです。でも全盛期の聖子さんは全開放。本当に後ろからオーラのような光がさしているような感じがしました

松田聖子という歌手は、僕にとってある種の「女神」だったんです。聖子さんはデビューしたときから「僕に絶対あう」と思っていました。でも最初はちがう人が詞を書いていて、ヒットもしていた。「僕ならもっとこの人を輝かせられるのにもったいないな」と思っていたら、いきなり仕事が舞い込んできた。やっぱり僕には天才を引き寄せる力があるんです(笑)。

・僕が神戸に移り住んだ理由は、いくつかあります。ひとつは、詩人というものは、晩年定住することなく漂白すべきと思っているから。芭蕉良寛在原業平も最後はみんな漂泊していた。もうひとつは、もし僕が本当に天才を引き寄せることができるのであれば、どこにいてもおもしろい人たちに出会えるんじゃないかと。退屈な老後を少しでも楽しく過ごしたいから、そういう実験をしているんです。

はっぴいえんど」は、自分たちの“場”がないから、それを作ろうというところからのスタートでした。71歳になったいま、もう一度、場を作ることからやってみようかなと思っています。仕事というよりは、老後の趣味、遊びのような感覚です。遊びだから途中で放り出すこともできる。(笑)つい最近、神戸のカフェにドラムセットを置かせてもらって、4月からは時々叩きに行こうかなと思っています。港町のカフェから音楽が生まれるなんて夢があるでしょう。こういう71歳がいてもいいじゃないですか。

いいなあ。ワタシも漂泊の「流し」でいたいなあ!憧れるなあ。文藝春秋のバックナンバーでしか読みないので、備忘録としてこのブログに保存しておきました!(^o^)