「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「安井かずみがいた時代」(島崎今日子)

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安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

 

 音楽業界に多大な影響を与えた加藤和彦が逝って10年。そして加藤のパートナーだった安井かずみ。名前はよく知っていたけど、こういう女性だったとは知らなかった!

 

「危険なふたり」「わたしの城下町」「よろしく哀愁」…。55年の生涯で4000曲の詞を紡いだ作詞家・安井かずみは、1960年代にデビューすると瞬く間にヒット曲を連発。著名人の社交場キャンティに出入りし、六本木をロータス・エランで疾駆する彼女は、上昇気流に乗る日本の「時代のアイコン」であった。生前の彼女を知る26人の証言をもとに、伝説の女、ZUZUの素顔に迫る」そのエッセンスを紹介しよう。

 
・二十代から三十代前半は自由奔放に生きる人気作詞家として、三十年代後半からは加藤和彦理想の夫婦を体現する女として。高度経済成長からバブル崩壊へと刻々と姿を変えていった日本と、歩調を合わせるかのようにその生き方をギア・チェンジして、大衆の憧れを誘い続けた。安井はどこまでも「時代の娘」であった
 

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林真理子が安井から教えられた最も大事なこと。自分の手で稼いで贅沢をすること」「望めば、何でも手に入るということ」だ。林は安井からこの遺伝子を受け継ぎ、後の世代に手渡しながら時代を駆け上がっていったのだ。
 
あの頃、安井かずみはなぜあんなにも私たちを魅了したのか。安井かずみが生きた時代とはどんな時代であったのか。そして死んでなお、安井かずみが人を惹き付けるのはなぜのか彼女を知る人たちの証言を辿りながら、安井かずみとその時代を検証したい。安井かずみを知ることは、私たち自身の欲望を知ることでもあるのだからー。
 
・当時、女性作詞家として安井と人気を二分したのが、加山雄三の歌や『恋の季節』を書いた岩谷時子であった。二人には共通項が多かった。安井はフェリス女学院岩谷は神戸女学院の出身、共に港町のプロテスタントの女子校で仏、英語を学び、楽譜が読め、学生時代は画家志望であった。
 
・「『歌は世につれ』って言葉があるけれど、まったくそうだと思う。特に今、着る物、ファッション、物の考え方、見方、価値判断、生活のし方、ポピュラー音楽は、全体的に、大きな一つの関わりを密着させながら流れ、動いてゆく。一つの歌は、一つの年代のあらわれとしるしであると思うから。だから私は過去の歌も書きたくないし、未来の歌も書けないと思う。今日、作詩するのは、今、今日私がこの世に生きている証拠の産物であって欲しい、と願う」
 
・「私にとって、作詞家は、休日、祭日、日曜日なし、一日二十四時間。一年三百六十五日営業なのだ。だから自分では、本業は人生、その副業(副産物)が作詞……なんて思ったりする。作詞をすることがとても好きだ。楽しい!得手だとも、生きがいだとも言わないけれど、歌の詞を考えるのがとても好き。真剣に好きなのだ。そして好きな作詞をするために努力を惜しまない。ベストを尽くす」
 
・加藤と暮らし始めてからの安井は、彼が嫌うという理由で好物のたらこを一切口にしなくなった。気軽にキッチンに立ち、ありあわせの材料で食事を作って食べることもなくなった。夕食は服を着替えて夫婦二人で摂ることが、彼女自身が望んだルールであった。加藤のほうも、安井と結婚してからはザ・フォーク・クルセダーズ時代の友人たちとは疎遠になり、夕食時には仕事をほうりだしても妻のもとに駆けつけた。バブル景気に沸く日本で、自他ともに認める「理想の夫婦」であった安井と加藤にとって何より大事だったのは、互いにパートナーでいることだったドンブリ飯より小さなお菓子」を選ぶ二人は、愛という名の共依存を強めていったのである。
 
・身近な男友達「恋人が替わるのがあまりに早くてね恋愛の和は僕より断然多かった。ZUZUは自分が翻弄できる男、つまり未知数の男が好きなんだよ脂ぎっているような男は嫌いだったんじゃない?全部私が面倒を見てあげるから言うことを聞きなさい』って感じかな。でも、あんなにいっぱい詞を書いていて、よく恋愛する余裕があったと思うよ」
 
・安井は、「危険なふたり」というタイトルが浮かんだのは仕事帰り、沢田を助手席に乗せて車を飛ばしていた時だったと、週刊誌で打ち明けている。「あの詞は、ZUZUが自分をテーマに書いたような気がするんだよね。♪年上の女 美しすぎる♪んあて、図々しいよな。♪それでも愛している♪なんて、これは絶対自分がそうされたい願望だよね。ZUZUはずっとジュリーに片思いしていたからね」
 
・加藤「こういう感じでこういう詞をつけて下さいという頼み方はしない。ぼくが明確な意図を持って作ったメロディだと、説明しなくても、その通りの詞が出来てくるね。ぼくがラララ……とハミングでうたってるテープを聞くだけで歌詞が聞こえるというんだよね」
 
・安井が逝って15年後の2009年10月16日、加藤はただ消えたいだけ」という言葉を残して、軽井沢で自死を選んだ。加藤さん、どうして死んじゃったんでしょうね。ZUZUが恋しかったのかもしれませんね僕はZUZUはいい時に死んだと思います。ただ、いなくなってつまらないですね。互いに影響し合い、認め合っていた親友を失ったんですから」
 
加藤に恋人が途切れることはなかった。けれど、加藤がどんな恋をしようと、友人たちが彼を語る時には安井が切り離せない存在として登場するのが常であった。安井こそ加藤のベスト・パートナーであり、安井を失って以降の彼はまるでベースをなくしてしまったかのようだったと見る向きは多い。それほど安井と加藤の結婚生活は、完成度の高い「作品」だったと言えるだろう。安井かずみの作った歌は今も多くの人の記憶に焼きつき、心揺らす。彼女が38歳のときから17年の人生を賭けて書き上げた愛の物語も、いまだ色褪せていない。
 
・安井は吉田拓郎が作曲した3つの歌の詞を書いている。戻ってきた恋人』『金曜日の朝』『じゃあまたね』である。拓郎「酒飲んでいる時は果てしもなく我が儘で、嫌な麺も不細工な面もダサい面もある女の人が、♪もっと素直に僕の愛を信じて欲しい♪」といった詞を書くところがプロの作詞家です。安井かずみは、空想の世界を描いていて、その空想の度合いがものすごくいい。男たちが作り上げてきた世界の中で女性としての作詞家の道を拓き、今でも輝いている詞を書いている。ワン・アンド・オンリーな人です」
 
拓郎「加藤和彦という音楽家の才能は、日本では唯一無二なものだと思っています。たとえば10人の歌手がいた時、その10通りの歌にランクをつけて一曲一曲こうすればよくなるということを即座にできる。未だにJポップスというものはほとんど何かのコピーにすぎないんですが、その元である音楽を全部彼は頭の中に叩き込んでいた。結婚しようよ』も僕の曲想はもっとフォーキーな感じで、スリーフィンガー奏法でギターを弾いたデモテープを渡したんですが。スタジオに行くと彼のアレンジで華やかに彩られた世界になっていた。ああこんなに変わるんだ、凄いなこの魔術はと思った。彼がスタジオで一個一個音を作っているのを目の前で見ながら、こうやって音楽は作ればいいんだとショックを受けるわけですね。そこから僕は自分で音楽をやっていく自信がついたんです」
 
・太田進「ガイドブックから専門書まで、書物を山のように買い込んで、歴史からアートまでを頭に入れるんです。そしてお互い勉強した知識を交換し合う。それがたぶん詞や音楽に反映されていくんだろうと、僕は勝手に分析していました。音を生み出したり詞を書いたりするクリエイターというのは、こういう思考回路になっているんだなぁ、て見てました。会話の中身がインテリジェンスで、ワールドワイドなんですよ。レベルが違う
 
 
「ドナドナ」の訳詞、「草原の輝き」「わたしの城下町」「経験」「若いってすばらしい」「雪が降る」「危険なふたり」「よろしく哀愁」「赤い風船」「不思議なピーチパイ」「だいじょうぶマイ・フレンド」「危い土曜日」「ジャスト・ア・Ronin」など。
 名曲が多いよね。いい時代だったんだなあ…。すごい女性だったんだなあ…。オススメです!♪
 

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安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)