「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「松本隆のことばの力」(藤田久美子インタビュー・編)

天才作詞家、松本隆。彼の詞でどれだけ感動したことか。吉田拓郎外は白い雪の夜だけでもなにか賞をあげたいよねー!(^o^)

 

作詞家、松本隆が50年のキャリアを語り尽くす。はっぴいえんどの「日本語ロック」や松田聖子などに提供した歌詞の背景から日本語という言葉のおもしろさと可能性が浮かび上がる。唯一無二の「ことばとの関わり」アーカイブするとともに、歌詞にこめられた時代、思い、人、街、そして風…も未来に伝える」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・たとえば、心の中にぼんやりと悲しい気持ちがあったとする。それを言語化して、口に出したり、紙の上に「私は悲しい」と文字で書いたりすると、意味を限定することになる。「悲しい」以外の部分を切り捨ててしまう。もっと他の感情もきっとあるはずなのに、ことばにしてしまうと「悲しい」だけが残る。言語化するということは、ある種の印を押すようなもので、まじないのように自分で自分に暗示をかける心理的な作用を持っていると思う。
 
・思念をことばにする時、そのことばは力を持つ。「弱い」と思っているのに「強い」と言っても、それはただの強がりであり説得力はない。ブルーだったものを、赤と言っても成立しない。思念の種をどう育てて言語化していくか、そのバランスのとり方がことばを見つける時に重要なのだと思う。
 
自信過剰はいつものことだが、作詞家としてやっていくことに関してはすごく自信があった。『ヤング・ギター』の編集長の山本隆士に「(作詞家をやろうと思っているけど、どう思う?)松本くん、そんなに甘いもんじゃないよ」と怒られた。でも、あっという間に二曲がヒットチャートに入った。
 
風は見えない。愛も命も優しさも、重要なものは見えない。重要であるほど目に見えない。水も重要だが、水は見える。だから風のほうが好きだ。見えないものは、存在しているのかどうかわからない。それが人間にとって重要なのだと思う古今東西の哲学者も、愛とはなにか、答えることができていない。海も河も雨も好きだけど、水は、見えているのが残念だ。
 
・風も水も、変化することでその存在を感じることができる。風は動いているから風であって、止まってしまったら風ではない動くことが人間にとって大事なのだと思う。風はある種の美意識であり、風を感じる心も美意識だ。感じるためにはテクニックが必要だし、そういう姿勢が重要だ。
 
・(筒美京平に)「ぼくが京平さんからもらったものはありったけの愛。彼ほどぼくのことばを愛してくれた人はいない。ありがとう、京平さん。いつかぼくも音符の船に乗り、天の園に舞い上がる日が来る。少しの間、待ってて。そしたら笑顔で、喜んだり怒られたり悲しんだり楽しく語り合おう」
 
・ぼくは、売れていても売れていなくても、自分が面白いと思った仕事は請けるのだが、筒美京平という作曲家は、他人が売ったものにはあまり興味を示さなかった。売れていないものを売るほうが面白かったのだと思う。山口百恵松田聖子に曲を提供していないのは、おそらくそのせいだ。
 
・京平さんはビッグヒットを持っている大御所だった。だけど、それに甘んじることはない人で、天才的な勘で時代の変化を感じて、それに順応しようとしていた。そこに、松本隆が必要だと思ってくれていたようだった。
 
ぼくは歌謡曲の外から単身赴任してきて、内側から歌謡曲を壊したいと思っていた。四畳半フォークみたいに青臭くはなく、作り事のような歌謡曲とも違う、その中間の巨大なシェアにまだ誰も目をつけていない。京平さんは興味がないみたいだった。
 
川端康成ノーベル文学賞の受賞が決まった時「英語に翻訳された作品を審査されたのであって、日本語で審査されていない。辞退するのが本当かもしれない」と述べたという。「(自分の文学は)日本語でしか表現できないし、それは西洋人にはわかいにくい」「自分の性質に深く発するものが環境とぶつかって音を立てたものがことばである」と言っている。
 
サッカーはリズムがいいほうが勝つ。試合のリズムが悪いと、強いチームであっても負ける。戦術はあまり関係ないと思う、スキーも能もダンスも名人級は頭が上下にも左右にもぶれないあらゆるスポーツにそれが言える。日本人はリズムに弱いというのは間違った定説だ。日本人は複雑なリズムで生きている阿波おどりや青森のねぶたの跳人(はねと)のリズムはシャッフルだ。能の鼓や浄土宗のお経の木魚のリズムは裏打ちだ。
 
・『メイン・テーマ』は、「愛」なんて単語はほとんど死語になっているという感覚が出発点で、だからせめて歌の中だけでも「愛」を語る必要があるのだろう、あえてクエスチョンマークを投げ込んでみようというのがメイン・テーマだった。「愛ってよくわからない」とい言い切ってしまうラブソングも例がないと思う。
 
否定形と人称代名詞は、使わないよう気を付けている。「会えない」「行かない」「来ない」「忘れない」。否定形を使うと書きやすいし、お洒落な雰囲気も出る。否定形を多用するヒットメーカーもいるけれど、それを反面教師にしようと思った。
 
縦書きにするとニュアンスが違ってくる。ぼくより前の人たちは縦に書いていたけれど、ぼくから後の作詞家はみんな横に書くようになった。
 
・ぼくの場合、詞は生き方だ。詞が、松本のライフスタイルそのものだと言われたことがある。急に歌謡曲を書き出したり、クラシックに詞を付けたり、時代時代で異質なことをやっているようでも、ぶれていないという自信がある。
 
アグネス・チャン太田裕美の成功で、女性歌手に書く詞は掴めてきていたが、歌詞の中に書くべき男性像というものをぼくはずっと模索していた。ぼくのことばを自分のことばとして歌う人に、職業作詞家として提供するための男性像を、ぼくはつくりあぐねていた。虚構としての男性像を、作れないでいた。それを解決したのは原田真二を手掛けた時だ。『てぃーんず ぶるーす』で、ぼくは初めて影のある少年像を作ることにチャレンジできた。この描き方はジャニーズの歌手たちとの仕事につながっていく。
 
・二曲目の『キャンディ』は、最初『ウェンディ』というタイトルだったが、ビーチ・ボーイズに『Wendy』という曲があるから変えてくれということになった。どこかに旅行に行く直前だったと思う。羽田空港で少女漫画をいっぱい買って、そのなかから選んだ。キャンディ・キャンディ』から拝借したタイトルだ。ウェンディとキャンディは語呂がいっしょだから。あんまり意味がない。
 
桑名正博『セクシャルバイオレットNo.1』は、カネボウの強い意向で、タイトルのことばあいきの依頼だった。「セクシャル」も「バイオレット」も「No.1」も、ぼくが使わないことばが3つも並んでいる。いよいよ頭を抱えた。どうやったらこのことばをダサくならずにインパクトのあるものにできるか。洋楽のように連呼することを思いついた。ダサいと思うものを隠そうとするから余計カッコ悪くなってしまう。堂々と連呼したら、ことばの意味を離れて響きのインパクトだけが耳に残るのではないか。この曲は、僕にとって初めてチャート一位を獲得した曲になった。
 
ルビーの指環』は、寺尾聰さんに風街の住人になって欲しいと思って書いた。日本には、宝石をタイトルにした歌はほとんどなかった。贅沢品をタイトルにしたら売れないと言われた。ルビーはダイヤモンドよりもずっと安い宝石だし、ぼくの生まれた月の誕生石でもある。ルビーの「ビ」と指環の「び」の韻もいい。周りの反対を押し切った。
 
ぼくにとって自分が幸せになるのはそれほど重要なことではない。まわりの人たちみんなが幸せになるように生きたいと思う。この詞はそれを歌っている。(『瑠璃色の地球』(松田聖子))
 
ぼくは説明が嫌いだ。一切説明はしたくない。心情を説明するのではなく、ディティールを積み上げることで心象風景を描く。映画なら小津安二郎黒澤明の表現だ。余計な感情はいらない。そこに、今までの歌にはない世界観があるし、これならいけるかもしれないという手応えがあった。
 
・作詞を始めて50年が過ぎた。ぼくは、音楽がやりたくてドラマーとしてこの世界に入り、学生の時に出会った天才ベーシスト・細野晴臣の勧めで詞を書き始めた。ぼくには下積みというものがない。習作はいつくつかあるが、ほとんど生まれて初めて書いた詞が作品として残り、それが今でも聴かれているのは幸せなことだと思っている。
 
『硝子の少年』(KinKi Kids)『ポケットいっぱいの秘密』(アグネス・チャン)『風をあつめて』(はっぴんえんど)『夏しぐれ』(アルフィー)『抱いて…』(松田聖子)『しらけちまうぜ』(小坂忠)『最後の一葉』『煉瓦荘』(太田裕美)『噫無情(レ・ミゼラブル)』(あがた森魚など。
 
うーん……いいなあ。阿久悠先生とはまったく違う時代を切り取っているよねー!