全作品読破を狙っている今尾恵介さんの本。地名の雑学が増える〜!!!(=^・^=)
「ブランド地名、災害地名、キラキラ地名のトリックに騙されないために、「ブランド地名」の拡大、「忌避される地名」の消滅、市町村合併での「ひらがな」化、「カタカナ地名」の急増。安易な地名変更で土地の歴史的重層性が失われている。地名の成立と変貌を追い、あるべき姿を考える」そのエッセンスを紹介しよう。
・JR山手線では約半世紀ぶりの新駅がほどなく開業となる。結果は「高輪駅」が抜きん出て多数であったが、JR東日本が決めたのは「高輪ゲートウェイ」である。このッ結果を知ってワタシは「またか」と思った。近年の駅名の傾向から、ひらがな、カタカナなどが付着する可能性がある程度は予想していたが、まさか江戸の町中であったここの場所にまでそれを持ち込むとは。いつまで地名を商売の道具にするのだろうか。
・駅名だけでなく、地名を商売の道具にする傾向は昨今に始まったことではなく、開発業者が自ら投資した住宅地に「商標」として地名を新造することはだいぶ前から行われてきた。それだけでなく、住民の側も自らの住む街のイメージを高め、ささには資産勝ちを上げるため、積極的に「新しくて好印象の地名」の誕生に関わってきた傾向もある。「銀座」も明治期に比べて約11.8倍の面積を持つに至っている。厳しい言い方をすれば、銀座のほぼ9割が偽物ということだ。
・かつての日本には町の名前から田舎の小字まで、無数の地名が今よりはるかに高密度でびっしりと地を覆っていた。人がまったく住まない土地でさえ、そこの特徴をつかんで地名をつけ、思えば今よりずっと土地に密着して暮らしていた。
【須恵】
この地名は各地に多く、知っている人にはすぐピンと来る。文字通り須惠器(古墳時代から平安時代にかけての陶質土器)を作っていたところで、これを焼いた古墳時代の窯跡群が見つかっているというから、まず本物に違いないだろう。
・今橋の地名が「忌はし」に通じるとして吉田(現豊橋)に変更することが実際に行われてきたのも確かだが、庶民レベルでは自ら名づけた地名を他人に強制する権力もないし、付けたとしても自然に受け入れられなかった地名が泡沫(うたかた)のように消え去ってしまったに違いない。
・昨今ではいわゆる「キラキラ駅名」も眼にするようになってきた。その嚆矢(こうし)はおそらく田園都市線の「たまプラーザ」あたりだろうか。なぜ地元の地名である元石川町ではダメだったのか。この問いは駅名というものの本質と、その後の「変質」を考える際に重要である。
・「浦和シリーズ」がもしかつての所在地通りにだと、北浦和駅が「針ケ谷駅」、南浦和駅が「大谷場駅」、西浦和駅が「浦和田島駅」、東浦和駅が「大牧駅」、中浦和駅が「鹿手袋駅」、武蔵浦和駅が「浦和別所駅」だったとすれば、間違って降りたり待ちぼうけしたりの件数はずいぶん減っただろう。特に鹿手袋駅などは一度聴いたら忘れない。
・自由ヶ丘はもともと「衾(ふすま)」と称したが、自由教育を提唱した手塚岸衛がここで自由ヶ丘学園を経営するようになった。東京府荏原郡碑衾(ひぶすま)町大字衾字谷権現前(駅所在地)は東京市目黒区自由ヶ丘(現在は自由が丘)となった。誰もが憧れる眩しいブランド地名がここに確立したのである。
・自由ヶ丘はもともと「衾(ふすま)」と称したが、自由教育を提唱した手塚岸衛がここで自由ヶ丘学園を経営するようになった。東京府荏原郡碑衾(ひぶすま)町大字衾字谷権現前(駅所在地)は東京市目黒区自由ヶ丘(現在は自由が丘)となった。誰もが憧れる眩しいブランド地名がここに確立したのである。
その他、「大曲=大きく曲がる」「赤坂=赤土の坂道」「ママという地名=崖」「谷の地名=東はャ、西はタニ」「近世では漁村を意味した「浦」」「橋のつく地名=橋本、日本橋、京橋」「私鉄に目立つ「神社仏閣駅」」「「新」は新幹線が最初ではない(京急新子安駅)」「キラキラ駅名はなぜ生まれるか」「ひらがな銀行・施設からひらなが市へ」「下のつく地名は嫌われる?」「平成の大合併で急増した「ひらがな市」」「難読地名ゆえのひらがな化も」「近年増殖著しいカタカナ町名」「福島は「災害地名」なのか」「淀橋の栄枯盛衰から見えること」など。