3年前の8月、新型コロナウィルスに感染して「亡くなるかもしれない」宣告を受けたワタシ。奇跡的に生還できて、その頃から比べるとすっかり健康になったなあ!♪ なんてことを思い出していたら、この本ですよ!タイトルがオモシロイ!!!
「新型コロナ危機では、人々の間で「自粛派」と「反自粛派」の対立が起きた。サル学の見地によれば、自粛派は生物の本能として感染症を怖がる「サル的」で、反自粛派は理屈で恐怖感を抑制できる「ヒト的」。「ヒト的」のほうが進化形だが、「サル的」のほうが命を守るうえでは合理的ともいえる。この対立は、中世ペストのときも江戸時代の感染症危機でも繰り返されてきた。なぜ「自粛する、しない」の相違は生まれるのか。「永遠の敵」のようにも見える両者は、果たしてわかり合えるのか。サル学者によるコロナ文化論」そのエッセンスを紹介しよう。
・この本は新型コロナウィルス感染に対して、どうして自粛する人とそうでない人とに分かれるのか、また同じ人でも初期の第一波の際には自粛したのに、第3波になるとそこまで自粛しなくなったりするのかを霊長類学(サル学)などをもとに考察しようと試みたものです。
・アーモンドの実に催吐剤をふりかけ、サルに与えてみました。サルは嘔吐します。この経験以降、サルはアーモンドを与えても、もう一切口にしないことがわかったのです。一度だけ。このように自分の身体に有害なことを動物がすみやかに覚える現象を「嫌悪学習」といいます。一度きりでも、その効果が尋常ではないほどに持続します。
・嫌悪学習は、サル以外の動物ではほとんど見られない特別な形式の学習です。高等な動物として自分の身の安全を守るため、高等な学習が進化したのだと考えられています。この習性はむろんヒトにも受け継がれています。では、毒キノコのように致死的な刺激だったどうでしょう?それは仲間を観察するだけで学習できるのです。たとえばヘビです。自ら体験したわけではなく、怖がる仲間に遭遇しただけで、ヘビを遭遇しただけで有害なものと認識してしまったのです。
・オトナが口で「ヘビは危ないよ」と、いくら口を酸っぱくしても注意しても、まったく効果はありません。実物を見せないとダメなのです。あるいは実物の写真や絵、そういう非言語の刺激情報があって、初めて学習が成立します。そのひとつの、そして極めてインパクトの強かった「事件」が、2020年3月に志村けん氏がコロナで急死したという出来事であったと考えられます。引き続いて岡江久美子氏の死も、ダメ押しの役割を演じたのかもしれません。
・2011年、石川県の焼肉チェーンで、ユッケで大量の食中毒が出て、生レバーの自粛に傾きました。コロナ自粛批判の声のほうが、はるかに大きいと思います。このふたつの出来事が示唆しているのは、われわれにとって生命を脅かす可能性の高い天敵が出現したとき、その出現確率が低いほど、人間はそれにより強く怯えるという、極めて逆説的な事実なのです。
・具体的に言語で判断するほうが、記憶力が悪くなったり、思考力が低下することが往々にしてあるのです。有名な事例は、目撃者として犯人の顔を記憶する能力の比較です。犯罪を犯すシーンをビデオで提示したあと、ひとつのグループの被験者には犯人に顔の特区帳を描いてもらいます。もうひとつのグループは、単純な四則計算をしてもらいます。そのうえで、複数の人物の顔写真を見せ、犯人を当ててもらいます。ふつうに考えると犯人の特徴を描いたグループの方が正答しそうなものですが、現実は反対にこちらのほうが成績が悪くなります。
・飲んだワインの銘柄を記憶する実験というのもあって、やはり味について批評家よろしくコメントすると、飲んだワインの銘柄を覚えられません。グルメ番組の食レポをしているタレントは多分何を食べたのか、食レポのあとほとんど覚えていないはずです。
・審美眼がある人物が、世の中には存在します。一種の直感みたいなセンスで、優れた作品はそれとわかるらしいのです。「いい!」と感じたのは、作品を見た、その瞬間にもうひらめいているのです。絵画のようなアナログ情報をデジタルで表記することはむずかしいのです。食レポがむずかしいのも、まったく同様です。味は分解できません。さらに言語には、味覚を表す語彙がそれほど存在しません。そもそも有史以来、人類は食べたもののの情報を仲間にこと細かく伝達する必要性がなかったのです。食レポをしているタレントが、有史以来の最初の人物だったのです。懸命に努力して表現しようとすると、食べたものがそもそも何だったかは、記憶に残らないのです。食べたものが美味であれば、「おいしい」で十分なのです。
こりゃオモシロイ!明治大学教授の栗本慎一郎センセイの『パンツをはいたサル』以来だなあ!オススメです。(・∀・)