この表紙の美女。これが原節子なのか!?いつも見ているイメージと違う。時代を超えて女性の美の究極。和製オードリー・ヘップバーンともいうべきか!?
「第15回新潮ドキュメント賞受賞!小津との本当の関係、たったひとつの恋、経歴の空白、そして引退の真相……伝説を生きた女優の真実を鮮やかに甦らせた、決定版の本格評伝。その存在感と去り際、そして長き沈黙ゆえに、彼女の生涯は数多の神話に覆われてきた。真偽の定まらぬままに――3年以上の歳月をかけ、埋もれた肉声を丹念に掘り起こし、ドイツや九州に痕跡を辿って浮かび上がったのは、若くして背負った「国民的女優」の名と激しく葛藤する姿だった。未公開のものも含め、貴重な写真を多数収録」そのエッセンスを紹介しよう。
・「セツコの演技は、私の心を大きく揺さぶる。
・日本では長く「永遠の処女」 のキャッチフレーズで彼女は知られる。 当時の女優としては大変めずらしいことに、 一度も芸者や遊女を演じていない。女学生や令嬢、 もしくは教師か女医がはまり役とされた。 加えて私生活でも独身を貫き、ゴシップもなく、 崇拝の対象とされたのである。
・時は占領下であり、 アメリカの文化や価値観が一斉に流れ込んできた時代。 戦時中は上映が禁止されていたハリウッド映画に人々は群がり圧倒 された。イングリッド・バーグマンをはじめ、 西洋人女優の美しさに、皆。息を呑んだ。大きな眼、 高く通った鼻筋、堀の深い立体的な顔立ち、様相の似合う背丈、 すらりと伸びた手足、 あるいは知性と教養と自我を感じさせる強い眼の輝きに。 それと同質のものを持つ女優は、日本では節子ただひとりだった。
・敗戦によって打ちひしがれ、 人種的な劣等感に苛まれていた日本人にとって、節子の存在は“ 民族の誇り”とっても大げさではないものだった。 敗戦で傷ついた人々は節子の美しさに励まされ、癒やされ、 勇気づけられたのである。
・(松竹の吉村公三郎監督)「 こんなに立派な顔をした女優が日本にいたものか」 圧倒的な美しさ、というだけではない。内面から滲み出る知性、 人を寄せ付けない風格と威厳、 フリーとなった節子の気の張りようが、 そう思わせた部分もあったのだろう。田中絹代、水戸光子、 高峰三枝子らとは、まったく異なる空気を節子はまとっていた。
・原節子は戦後の日本人を、その美しさで照らし、慰め、励まし、 導いてきた。 人々は節子が演じるヒロインのなかに社会が求める価値観を見出し 、進むべき方向を知り、戦後を生きた。そして、 戦後が終わったとき、原節子の時代も終わった。 人々は節子への関心を失った。復興から経済成長へ。 世の中は東京五輪の開催に向けて動こうとしていた。 浮つく世の中は節子がいなくなったことにも、当初、 気づかなかった。
・外出する時はマスクをすることが多かった。 近所に煙草を買いに生き、鎌倉駅のそばまで化粧品を買いに行く。 時には銀座まで出掛け、海にも行った。 材木座海岸までひとりで泳ぎに行くこともあった。 車を自分で運転して、 少し離れたところで買い物をし海沿いを走って帰ってくる。 そんな日常を楽しんでいた。
・とはいえ、大半の時間は家のなかで過ごした。 映画女優になってからというもの、 一歩外に出ればじろじろと見られた。それが嫌でたまらなかった。 だから女優時代から家や部屋にこもる習慣がつき、 それが少しも苦痛ではないのだった。読書をし、 時おりレコードを聴く。庭の草木を手入れをし、家事をする。 同じ敷地内には、姉と義兄、甥がいて少しも寂しくはない。
・ひたすら家に籠り、本を読み、 自炊をして質素な生活を送り続けた。ただし、 世間への関心を失っていたわけではない。平成七(1995) 年に阪神淡路大震災が起こった際には、 朝一番で自ら郵便局に飛び込み相当な額の義援金を送ったという。
・「恋愛は一生に一つしかない。その一回が永遠で、 それがきのうのことのように忘れられない。自分が恋した人は、 たいしてえらくない人なので、 会社からいわれて他の方と結婚してしまった」 これは明らかに清島長利のことであろう。
・平成27(2015)年、6月、 節子は95歳の誕生日を迎えた。彼女は、いたって元気だった、 という。 足腰が弱って家から出ることこはめっきり少なくなったら、 ひたすら本を読み、時には庭の草木の手入れを楽しんだ。 買い物は久昭夫妻が請け負い、食事は母屋から届けたが、 サラダなど簡単なものは自分で作った。 ぜいたくをせず質素で極めて禁欲的な生活を、 彼女は50年以上も続けたのだった。限られた空間のなかで。 彼女は自分で自分を幽閉したのである。それは完全は、 徹底した隠棲だった。決して姿を見られまいとした。「原節子」 を守るために。「原節子」を嗤(わら)わせぬために。 それが会田昌江の後半生であった。
・彼女は勁(つよ)い女優であり、勁い女性だった。 完全な男社会だった日本で、流されるのではなく抗い続けた。 引退や隠棲、独身を貫き通したことも、やはり彼女の「抗い」 だったと私には思えてならない。多くの巨匠たちに愛され、 数々の名作に出演し、幸福な女優だと語る人がいるが、 はたしてどうであろうか。彼女は最後まで代表作を求め続けた。 しかし、その夢は果たされなかった。 女優人生のなかで恋を犠牲にし、実兄を失い、 自身の健康を損ない、得られたことはどれほどのものだったろう。
・原節子はまた、 自分の意志とは無関係に時代を背負わされた存在でもある。 彼女が人々に特別に記憶される理由もまた、そこにある。 同世代の女優でも、 これほど激動の歴史と重なる生涯を送った人はいない。 関東大震災、昭和恐慌、満州事変、日中戦争、三国同盟、 太平洋戦争、廃墟からの復興……。その一幕一幕で、 彼女は精一杯に自分の役割を果たした。そして、 行動経済成長のさなかに姿を消した。