あらためてこのタイトルのように「学ぶとはどういうことか」とかいわれると困るんだけど、読んでみると、なーるほどー!♪と思うんだよねー!特に東日本大震災では、いったいワタシたちは何を「学んで」きたのか、ということを考えされられたよねー!♪
「本書は「学びの塔」である東大の総長を務め、かつ政治思想史の碩学で政治という「歴史の中で人間を動かす学問」を研究と現実とで行ってきた著者が、長年の教育実践をもとに、福沢諭吉、アリストテレス、ヘーゲルやマルクスの知の軌跡に分け入りつつ示す、「勉強」を超えて到達する「学び」の境地。旧来の常識や手本を学び、それを超えて自由になることは、人生の可能性を大きく切り開く」そのエッセンスを紹介しよう。
・東日本大震災という悲惨な出来事は、多くの犠牲者を通して「 学ぶ」ということを考える重要な手がかりを与えた。まず、 日本は地震の多い国であり、 どの地域の人々も地震とそれから起こる災害についてこれまで多く のことを「学ぶ」のに余念がなかった。 2004年の新潟県中越地震の際、 上越新幹線が強い揺れにもかかわらずに僅かに脱線しただけで停止 し、乗客に深刻な被害が出なかったことがあった。 国内のメディアは「安全神話の崩壊」などと書きたてたが、 海外ではその高い安全性がむしろ注目された。
・ 柏崎刈羽原発では原子炉本体については基本的に問題がなかった。 新完成も原発も膨大な「学び」の体系の塊であり、「学び」 の蓄積によって地震と向かい合うことをつねに念頭に置いてきた。 そして日本の世論は、 日本社会が他の国々よりも地震に対してはるかに高い安全性を要求 し、自分たち「学び」とその成果に大きな自信を持っていた。 この地震は改めてこの「学び」 の限界とその質を試すことになったのである。 それは自然の恐るべき力と人間の「学ぶ」 こととのせめぎ合いの歴史の巨大な実例であった。
・等に日本の状況では、 巨大な土木工事によって津波対策を考えるといった「学び」 といった「学び」の体系にはまだ無縁であった。「学ぶ」 ものがあるとすれば、前兆として伝えられるものを「学ぶ」 ことであり、後はいち早く高台に避難することであった。
・このような三陸海岸の津波の歴史を辿ると、人間が「学ぶ」 ことを通して自然の脅威といかに闘ってきたかが明らかになる。 原発という科学的知識の粋を結集したはずの大設備が一気に危険な装 置になったことは、「学び」 の成果と蓄積が壊滅しただけではなく「学び」 の成果が新たな脅威に転嫁しかねない現実を示した。 自然の恐るべき力に対しては万全の態勢や万全の準備といったもの はあり得ないということを東日本大震災は強烈な形で示した。
・東日本大震災は基本的に「想定外」の出来事であった。 しかし関係当事者が口にする「想定外」 という言葉はつねに責任逃れのニュアンスがつきまとい、本当は「想定」すべきであった事柄を無視し「想定内」 という領域に逃げ込んでいるのではないかという疑いが残る。
・こうした大震災はわれわれがこれまで何を「学び」、 この大きな犠牲から何を「学ぶ」かが問われる大きな機会であり、 大事な機会である。事態を正確に知り、理解し「想定」を疑い、 そして超えるべき機会である。大震災は大いなる悲劇・ 惨劇であるとともに、高価な犠牲と引き換えに何を「学ぶ」 のかが問われる重大な局面である、 その多大なる犠牲を無にしてはならない。
やっぱり一生、勉強だよね。学んでいきたいよね。オススメです!(・∀・)♪