・ヤマト運輸の社名は当初「大和運輸株式会社」で、 これをヤマトウンユと読ませたが、 大和銀行や大和証券がいずれもダイワと呼ぶように、 ダイワ運輸と間違われることが多かった。そこで昭和57( 1987)年に「ヤマト運輸株式会社」を正式呼称とした。
・終戦からの十年間で、 日本のトラック運送事業には大きな変化が訪れていた。 特筆すべきは、 西濃運輸や日本運送など西日本の業者の台頭であった。特に東京と大 阪を結ぶ東海街道は、ゴールデン・ルートと呼ばれ、 大手路線会社によって激烈な競争が繰り広げられた。 こうした長距離輸送は、 戦前まではもっぱら鉄道の仕事とみなされていた。そこに、 トラックが進出してきたのはなぜか。 まず第一が道路の改良である。そしてトラックの質の向上。 鉄道の長距離輸送の問題は、時速70キロ以上の高速を出せるが、 貨物駅を出るまでに非常に時間がかかった。 その点トラックには鉄道にはないメリットがあった。 工場で貨物を積めば、何時で出発できる。このため、 平均時速30キロでも、ドア・ツー・ ドアの時間で換算すれば鉄道に負けないスピードになった。
・ヤマト運輸が危機に直面したとき、 社長に就任した私の頭に浮かんだのは、 まさしく逆転の発想であった。 ターゲットとする市場を商業貨物から個人宅配へと切り替え、 事業の体制も、 多角化とは反対のたったひとつのサービスに絞るべきではないかー 。そんな発想のヒントとなったのは、あの、吉野家の牛丼である。
・競争相手が郵便局しかない。 大変魅力的な市場であることは間違いない。 だからといって簡単に参入できるものではない。 それもよくわかっていた。 民間が誰も参入していないということは、 それなりの理由があったのである。それは採算性の問題で、 誰がやっても採算は取れないだろうということである。
・小荷物の宅配は、 需要が多くまったく偶発的でつかみづらいから、 事業は不安定である。しかもどこへ行くかは、 出荷先の家庭に行ってみるまでわからない。でも、 家庭の主婦は値切らないし、現金で払ってくれる。 差し引きすると、 デメリットのほうが大きいことは間違いなかった。
・なんでも運べる良いトラック会社になるという方向は、 間違っているのではないか。 吉野家のように思い切ってメニューを絞り、 個人の小荷物しか扱わない会社、 むしろ扱えない会社になった方が良いのではないだろうか。 広く何でもやれる会社と、狭くひとつのことしかやれない会社の、 どちらが可能性があるだろうか。
・個人の宅配の需要は、 はたして本当に偶発的で散発的なのだろうか。この疑問は、 ひとつの仮説へと発展した。 人間が生活しその必要から生ずる輸送の需要は、 個々人から見れば偶発的でも、マスとして眺めれば、 一定の量の荷物が一定の方向に向かって流れているのではないか。
「三越との訣別、そして宅急便へ」「宅急便前史」「 戦前は日本一のトラック会社」「マンハッタンでの確信」「 宅急便の開発」「キーワードは“荷物の密度”」「供給者の論理、 利用者の論理」「サービスが先、利益は後」「 なぜ社員を増やすのか」「安全第一、営業第二」「 ダントツ三カ年計画、そして行政との闘い」「 セールスドライバーは“寿司屋”の職人」など。
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