いや〜!この本はスゴいわー!感動したわー!実話だから説得力あるなー!!!あたらしいサービスが生まれるときっていうのは、こういうモノかもしれないなー!♪
いまでこそ、世の中で欠かせない当たり前のサービスとなった宅急便だが、当初は「民間会社では事業化できない」といわれていた。それは、なぜか。そして、事業化できないといわれていた
宅配事業に、なぜヤマトは挑んだのか。あと数年で創業100年を迎える
ヤマト運輸とは、いったいどんな会社だったのか。
小倉昌男氏と共に戦ってきた著者が、いま真実を明らかにする。日本が誇るサービス・
イノベーション――『宅急便』を、新規事業として見事に 成功させた経営者の迫真の実話が綴られている。企業人必読の経営書」その
エッセンスを紹介しよう。
・私が入社した1950(昭和25)年、この頃の
ヤマト運輸は、
決して順風満帆な会社ではなかった。
かつては関東の雄として輝いていたヤマトだったが、
日本経済が高度経済成長を迎え。貨物輸送量が大幅に増えるなか、
好況の波に乗れなかった。
長距離路線に出遅れたために関西の業者に大きく差をつけられ、
ジリ貧の道に迷い込んでいた。
後に2代目社長になる
小倉昌男さんが営業部長の頃
「ヤマトは、何の特色もない運送会社だ」というのがいつもの口癖だった。
ショックだったのは、当時のベストセラー
『危ない会社』(
占部都美、光文社刊)のなかで、陸送会社として唯一、
「あまり成績のよくない会社」としてヤマトが選ばれたことだった。
・この本は、ヤマトが
どん底だった1970(昭和45)年から、
宅急便を開始した76(昭和51)年を経て、全国ネットワークを
ほぼ完成させた90(平成2)年まで、死ぬか生きるかの
激動の20年を中心に書き記したものである。
宅急便を開始するにあたっては、越えなくてはならない2つの厚い壁があった。ひとつは、社内の壁である。当初は、すべての社員が宅急便の事業化に反対だった
。
もうひとつは、社外の厚い壁である。まずは、路線免許がある関
東域内で宅急便を開始することができた。しかし、
運輸省に全国の免許を申請したところで、はたして、それが認めら
れるのかという問題があった。実際、全国に免許を持つ運送会社な
ど1社もなかった。
・
当時、人々が荷物を送ろうとしたときには、郵便局に持ち込むしかなかったが、郵便局では、重さが6キログラムまでの荷物しか扱ってもらえなかった。6キロを超えると国鉄の駅に持参する。当時は
「小荷物」といっていた。ところが配達してくれなかった。
「あなたの荷物が駅に着いているので引き取りに来てください」という通知が送られてきた。これを
「駅留め」といっていた。
郵便局も国鉄も、集荷をせず、荷物を「持ってこい」「送ってやる」というサービスだった。「いつ着きますか」と郵便局の窓口で尋ねても「いつ着くかわからない」というのが答えだった。このように、
小包の「翌日配達」が不可能であることは、宅急便事業を始める前に調べてあった。
そういう実際を分析していたので、
翌日配達が確立できれば、必ず勝てるはずだと確信していた。
「Yamato Parcel Serviceの略で、YPSというのはどうだろうか」「横文字はダメですよ」「昔から『宅配』とか『急便』とか言われてますが、2つをくっつけて『宅急便』というのはどうですかね。逆にして『急宅便』でもいいですよ」このほかには、「ハニーライン」「トゥモローサービス」「クイックサービス」などといった社内募集による案もあった。
「初日は11個しか集まらなかった」「3年で移行できなければヤマトは沈没」「なぜクロネコはライオンを蹴っ飛ばしたのか」「岡田三越からの要求に、がまんの限界」「集荷しないサービスが相手なら必ず勝てる」「前島密の郵便建議に込められた精神」「女子高校生も罰せられるのか」「郵便法について監察局と争う」「香典返しの礼状も信書ではないか」「ダイエー中内会長の決断」「セブンイレブン鈴木社長からの電話」「ヤマトから学んだこと」など。
これ、まさに「プロジェクトX」だわー!事実は小説よりも奇なりだね。感動モノ!超オススメですっ!!!(・∀・)♪