「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの」(森健)

 

数冊の本の中で、どれを先に読もうかな!?とパラパラとめくってみて少し読んだら、もう止まらないっ!一気に読んでしまったほど惹きつけられたのがこの本。

「ヤマト「宅急便の父」が胸に秘めていた思い。2005年6月に亡くなったヤマト運輸元社長・小倉昌男「宅急便」の生みの親であり、ビジネス界不朽のロングセラー『小倉昌男 経営学』の著者として知られる名経営者は、現役引退後、私財46億円を投じて「ヤマト福祉財団」を創設、障害者福祉に晩年を捧げた。しかし、なぜ多額の私財を投じたのか、その理由は何も語られていなかった。取材を進めると、小倉は現役時代から「ある問題」で葛藤を抱え、それが福祉事業に乗り出した背景にあったことがわかってきた――。著者は丹念な取材で、これまで全く描かれてこなかった伝説の経営者の人物像に迫った。驚きのラストまで、息をつかせない展開。第22回小学館ノンフィクション大賞で、賞の歴史上初めて選考委員全員が満点をつけた大賞受賞作」そのエッセンスを紹介しよう。

 

小倉昌男の謎

 
1 ヤマト退任後、なぜ小倉昌男さんはほとんどの私財を投じて福祉の世界に入ったのか?
 
2 小倉さんに対する外部からの人物評と、小倉さんの自分自身への評価にギャップがあるのか?
 
3 病身にあり80歳になっていた小倉さんはなぜアメリカに渡ったのか?
 
・「そもそも、私がなぜ福祉の財団をつくろうと思ったのかというと、実ははっきりした動機はありませんでした。ただ、ハンディキャップのある人たちになんとか手を差し伸べたい、そんな個人的な気持ちからスタートしたのです」
 
・「小倉さんは、住むところも、あるいはお金ですら、こだわりがありませんでした。豪華なものを買うわけでもないし、物欲的なものは関心がなかった大事にしていたものは食事をしたり、おしゃべりをしたりというふれあいでした
 
・(遠野)「暗くなってお店に来るので『どうしたの?』と聞く。すると『娘が帰ってくるんだよ、久子、嫌だよ……』と言う。驚いて『だって、娘さんなんでしょう。なんでそれが嫌なの』と聞くと、『おれはうつになりそうだ……』と。そう言って落ち込んでいるわけです。ああ、何か確執があるんだなあと思いました」
 
小倉さんがずっと気に病んでいたのは真理さんの心の病なんです。ものすごく責任を感じていました。あまりかかわれなかった自分の育て方や家系にも原因があるのかもしれない、と心配しているといもありました。つまり真理さんのさまざまな問題はすべて自分に責任があると感じていたんです、その負い目があって、真理さんには特別な愛情、これは責任と裏腹で強く感じていたんです。その負い目があって、真理さんには特別な愛情、これは責任と裏腹で強く感じる感情ーをもっていました。
 
・「自分がずっと負担に思っていた感覚、後悔や愛情などがないまぜになった感覚。それを娘のところへ行くことでずいぶん減らせたのかなと、いまふっと思いました。真理さんのことは、小倉さんの心にずっとひっかかっていたこと。だから、小倉さんにとって、最後に真理さんのことろへ行ったのはーそれは本当に大変だったと思うけれどーよかったのだろうなと思いました」
 
・「誰も書いていないけど、本当の小倉昌男という話になると(妻・玲子と長女・真理の存在)それは外せない問題なんです。

・(康嗣)「母がなくなったことはもちろん関係しているでしょう。加えて、姉の育て方に対して、自分が納得できなかった思いもあったはず。家で騒ぐわ、離婚して帰ってくるわ、再婚となったら外国人だわだわ……と次から次へと騒がしかった。そういう娘を育ててしまった反省も、財団設立にはあったと思います」
 
境界性パーソナリティ障害と確定したのは1994年頃でした。それまでは、診断も一定しないし、治療自体がなかなかうまくいかなかった。私としては境界性パーソナリティ障害とわかって本当によかった。2006年に自分に合った薬が出た。それでものすごく精神状態が安定したんです。2005年に父が亡くなったあと治ったんです。以来、まったく、本当にまったく暴れないし、キレなくなった。だから……病気だったんですね。
 
・康嗣によれば、宅急便の拡大期が真理と母の関係が最悪の状態という話だった。この時期、真理だけじゃなく母がすでに荒れていたのだいう。「当時父は宅急便で忙しかった時期ですが、じつは家でも大変だった。なぜ母がアルコールに溺れるようになったのかといえば、祖父の康臣やその三番目の妻のいじめもありましたが、もっと大きな要素だったのは母自身です。周囲の目を気にして、自分で自分をもっと追い込んでしまっていたのです。つまり、ちょっとしたことに過敏に反応したり、自分で自分をさいなんだり……繊細すぎる性格だったんです」
 
・日曜の朝。母のきみゑが発見したときには、玲子はすでに事切れていた。この母の死が真理に大きく影響した。真理はそのあと本格的な思いうつ病を患いだが行く病院に入院することになった。自分が母の死の原因ではないかという罪の意識に苛まれたからだ。苦しむ真理に、小倉はたびたび病院を訪れては頑なにこう伝えた。「真理のせいではない。パパのせいなんだ」ただ、そう自分に責任を帰する理由は語らなかった。真理の幼い頃からのトラブルにしても、玲子の患っていた病気にしても、どちらにも精神的な問題が存在していた。病名やその程度に差異はあっても、精神障害精神疾患が二人に関係しており、小倉はその苦悩をずっと抱えていた。小倉は日中は宅急便事業で東奔西走するかたわら、家に帰ると、母と娘の衝突を避け、二人の症状を緩和させようと奮闘していた。
 
・娘は「わがまま」だから傍若無人の振る舞いをしていたわけでもないし、父も「北海道が好き」という理由だけで玲子を出張に同行させていたわけではなかった。一人にしておくと何をするかわからない、というきわめて現実的な危機があって、北海道に連れ出していたのである。財団は「なんとなく」設立されたわけではなく、明らかに小倉にはある種の意図があったように思える
 
・「たぶん父は、最後まで自分が真理の面倒を見なければならないー。そう考えていたんじゃないかと思うんです。あの年齢、あの身体で『自分が面倒を見る』とはおかしな話なんだけど、そう考えると父の行動は納得がいくんです。不安定な娘の面倒を見ようと、はるばるアメリカに渡ったんです。私に何かあったら、自分がなんとかする。父はずっとそう考え、また、そうこうどうしていた人でした。最後までそう考えていたのかもしれませんね」
 
小倉は早い段階で、二人の振る舞いの根源が病から発していると気づいていたのではないか。そう考えると、小倉の対応がいつでも控えめだったことも納得がいく。娘がいかに暴れようとも、妻がいかにアルコールに溺れようとも、そして自分を傷つけようとも、心の病とわかっていたから怒れなかったのである。それでも精神疾患精神障害という病に理解の乏しかった時代に、小倉が娘と妻に心に砕いていたことはうかがえる。それでも悲劇が起きた。わずか一夜、自身の下を離れ、妻が葉山に泊まったことで、悲劇を防ぐことができなかった。その後悔がどれほどだったか、想像にあまりある。
 
・後半の人生をかけて、小倉は精神の病に向き合わざるをえなかった。その根っこにあったのは、何万人もの障害者に対してというより、妻と娘に対する一人の父、どこの家族にも共通する父親としての思いだったように映る。
 
【ニーバーの祈り】
 
〈神よ 変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け容れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものを識別する知恵を与えたまえ〉
 
・「彼の地位であれば、享楽的な楽しみ、目に見える物質的な楽しみはいくらでも手にすることができたはずです。でも、小倉さんはそちらに行かなかった。わざわざ目に見えない神様の世界に目を向け、信仰に勤しんだ。もしろん、それは同時に彼自身が信仰に救いを求めていたことでもあります、悩みからの脱却です。その彼個人の祈りや、障害者など弱きものの自立を助けるように働いた。そして、そういう祈りが財団につながった。小倉昌男という人の生き方は、神様にも、人々の心にも強い感動を与えた。その目に見えない力は永遠に続くでしょう
 
「佐川と大和(ヤマト)」「サービスが先、収益が後」「大切な女性・(仮)遠野久子」など。

 

「宅急便」誕生の裏のストーリーにこんなことがあったとは!よく取材したなあ!書籍にしてくれてありがとうございます。感謝!今年読んだ本のベスト10は間違いないっ!!超オススメです!(・∀・)