「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「オレたちだってジャイアンツだ 戦火の中の青春」(上之郷利昭)

 
野球関連の本だけで年間50冊は読むんだけど、野球が大好きなのだ!facebookで紹介されたのがこの本。これ、いいよお!今の野球界の発展の礎となったのは、これら黎明期の人たちがいたからなんだよね。(・∀・)♪
 
ジャイアンツ草創期から第二次世界大戦が終わるまで、プロ野球の灯を守り続けた、無名選手たちの記録。ノンフィクション界の鬼才上之郷利昭の迫真のドラマ!」そのエッセンスを紹介しよう。

・巨人軍の50年の歴史を振り返ると、巨人軍の選手でありながら、ただの一度もGIANTSのユニフォームに袖を通さないまま、球界から消えていった選手もいる。もちろん、二軍選手や練習生ではない、れっきとした一軍選手であったにもかかわらず……である。それは、日本が太平洋戦争の突入した昭和16年以降に巨人軍に入団し、戦前のプロ野球の最後のシーズンとなった19年を限りに二度とグラウンドに戻ってこなかった人たちである。
 
・これらの選手の中には、18年の暮れに入団して、19年の1シーズン限りでプロ野球から足を洗った人もいたこの19年は、前年まで8球団あったうちの2球団が解散して6球団となっていた。戦局が厳しくなった上、選手が相次いで兵隊にとられ、チームの編成ができなくなったためである。なにしろ、球団の支配下選手は、6球団全部合わせても74名に過ぎなかった。
 
かつて野球は、単なる球技の1つではなく、少年たちの生活の一部そのものであった。少年たちは野球を通じて男の社会のモラルを学び、男の生き方を習得した。野球をすることそれ自体が、大袈裟にいえば、幼児から脱皮して“男の子”と認知される重要な意味をもっていたのである。野球しか目の前になり時代……それは、完全に過去形でしか語れなくなったのかもしれない。
 
そのときの沢村は、近寄りがたい雰囲気を漂わせていたと多田(文久三)いう。目はつり上がり、しかも血走って鬼気迫る容貌をしていた。前線での激しい戦闘を経験し、気も昂ぶっているのか、まるで猿みたいだった。
あのときの沢村さんの目は戦争で人を殺してきた人の目だと直感的に思いました」多田は、大投手の見てはならぬ面を見てしまったような気がした。
 
「巨人の伝統っていうのは、いちばん人気があるとか、常勝の義務なんかじゃない。あくまで相手を圧倒する勝負へのこだわり、執念だ。常勝なんていったって、いまの拮抗したチーム力からしたら不可能ですよ」
 
・彼らは三原や水原、川上のように一斉を風靡した第選手、有名選手ではなかった。戦争が終わり平和が戻って、プロ野球が再開され、三原、水原、川上、青田昇などの有名選手が復帰してくると、彼らはノンプロ野球に移って行き、やがてはサラリーマンや、レストランの経営者、町工場の経営者となり、われわれの街の、われわれの周囲のどこにでもいる市井の人たちとなって、その余生を送っているプロ野球の殿堂に入っているわけでもなければ、プロ野球の歴史が語られる時にその名前が特筆されるわけでもない今は初老にさしかかった彼らの胸の中にそっとしまいこまれたまま、永遠に眠ってしまったに相違ない。だが、彼らは心の中で密かに叫ぶのである。ーオレたちだってジャイアンツだ」と。
 
キミたちの満喫している豊かさと、平和の下には、戦争と、飢えと、貧しさの中で懸命に闘った先人たちが礎となっていることを……。 
 
「谷間のジャイアンツ」「少年たちの夢と正力松太郎の発見」「消えた甲子園」「禁止された“隠し玉”」「職業野球人の校内立ち入りを禁ず 」「東芝府中工場の産業戦士」「ジャイアンツの20年8月15日」など。

 

うーん……胸があつくなってくる……。広島、長崎、終戦などの話題が多い8月だからこそ、読んで欲しい本だね。超オススメです。(^o^)♪