ワタシがもっとも影響を受けた漫画家といえば、ダントツでちばてつやだ。「あしたのジョー」「ちかいの魔球」「おれは鉄平」「のたり松太郎」……マニアックなところでは「餓鬼」「蛍三七子」など。どれだけ繰り返し読んだか数えきれない……。全巻持ってたもんねー!♪
「屋根うら部屋での体験が、僕の漫画家としての下地をつくった……日本を代表する漫画家ちばてつやは、どのようにして誕生したのか。その戦争体験やデビューの経緯、「あしたのジョー」をはじめとする名作の制作裏話など、画業60年の著者がイラストと文章で縦横に語る自伝集」そのエッセンスを紹介しよう。
・東日本大震災で、津波が去った後のがれきの山の映像を、
・私は、何をやらせてもダメな子どもだった。漫画も、 絵を描くのは楽しかったけど、あまりうまくなかったし、 お話を作るのも苦手だった。何につけ要領が悪く、 あまりのノロマぶりに、母が「 この子は世間でどうやって生きていくのだろう…」 と行く末を案じていたほどなのだ。「生きるため」 という目の前の目標と「好きな漫画しかない」 という思いとが結びついたから、 この仕事を長く続けてこられたのだろう。千葉徹弥が、 いかにして漫画家になったか。その時代を振り返ってみたい、 そうすれば、 僕の話があながちうそではないことを理解されるだろう。
・2番めの弟、亜喜生(あきお)は、運動も、勉強も、楽器も、 何でもスマートにこなす自慢の弟だった。それが、 こと漫画となると、途端に「不器用」になった。デビュー作「 サブとチビ」を描き上げた後「 漫画がこんなに難しいとは思わなかったよ…」 とこぼしたのを覚えている。「キャプテン」「プレイボール」 とヒット作が出てからも、描いては消しを繰り返し、 無精ひげを生やして家の中をうろついていた。 苦しそうな姿を見て、僕もつらくなったものだ。 物語の繊細な雰囲気やぬくもり、ペンタッチの柔らかさ、 それをとっても、僕がまねできない「ちばあきお」 の世界が完成していた。不器用に見えたけど、違った。 やっぱり亜喜生は、器用でスマートだったんだなと再確認した。 生前、あまり褒めたことがなかったから「 けっっこう悩んでたけど、 亜喜生はすごくいい作品をたくさん残したじゃないか。負けたよ」 そう言ってあげたい。