「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ちばてつや自伝 屋根うらの絵本かき」(ちばてつや)

 
ワタシがもっとも影響を受けた漫画家といえば、ダントツでちばてつやだ。あしたのジョー」「ちかいの魔球」「おれは鉄平」「のたり松太郎……マニアックなところでは「餓鬼」「蛍三七子」など。どれだけ繰り返し読んだか数えきれない……。全巻持ってたもんねー!♪
 
 
「屋根うら部屋での体験が、僕の漫画家としての下地をつくった……日本を代表する漫画家ちばてつやは、どのようにして誕生したのか。その戦争体験やデビューの経緯、あしたのジョーをはじめとする名作の制作裏話など、画業60年の著者がイラストと文章で縦横に語る自伝集」そのエッセンスを紹介しよう。
 

東日本大震災で、津波が去った後のがれきの山の映像を、僕はやりきれない思いで見ていた。そのとき、ふと遠い記憶がよみがえった。そうだ。満州から引き上げてきた時の光景だ。家族で博多港にたどり着き、列車に揺られながら見た敗戦時の、日本の都市の町並みだ。僕はあえて言いたい。「大丈夫、きっと、笑って過ごせる日がくるから」と。思えば、目の前に広がるがれきの山が、僕のスタートラインだった。僕だけじゃない。ほとんどの日本人が、あの何もない、がれきの中から、はい上がってきたんだ。

 
私は、何をやらせてもダメな子どもだった。漫画も、絵を描くのは楽しかったけど、あまりうまくなかったし、お話を作るのも苦手だった。何につけ要領が悪く、あまりのノロマぶりに、母が「この子は世間でどうやって生きていくのだろう…」と行く末を案じていたほどなのだ。「生きるため」という目の前の目標と「好きな漫画しかない」という思いとが結びついたから、この仕事を長く続けてこられたのだろう。千葉徹弥が、いかにして漫画家になったか。その時代を振り返ってみたい、そうすれば、僕の話があながちうそではないことを理解されるだろう。
 
・2番めの弟、亜喜生(あきお)は、運動も、勉強も、楽器も、何でもスマートにこなす自慢の弟だった。それが、こと漫画となると、途端に「不器用」になった。デビュー作サブとチビ」を描き上げた後「漫画がこんなに難しいとは思わなかったよ…」とこぼしたのを覚えている。「キャプテン」「プレイボール」とヒット作が出てからも、描いては消しを繰り返し、無精ひげを生やして家の中をうろついていた。苦しそうな姿を見て、僕もつらくなったものだ。物語の繊細な雰囲気やぬくもり、ペンタッチの柔らかさ、それをとっても、僕がまねできないちばあきおの世界が完成していた。不器用に見えたけど、違った。やっぱり亜喜生は、器用でスマートだったんだなと再確認した。生前、あまり褒めたことがなかったからけっっこう悩んでたけど、亜喜生はすごくいい作品をたくさん残したじゃないか。負けたよ」そう言ってあげたい。
 
 
ちばてつやちばあきお。よく考えるとスゴい兄弟だよね。ワタシのベースを作ったのは、この二人のマンガからです、っていう人、多いんじゃないかな。オススメです。(・∀・)