「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ちばてつやが語る「ちばてつや」」(ちばてつや)

小学生の頃、いちばん好きだった漫画家がちばてつやだった。少年マガジン『おれは鉄平』の連載開始した巻頭カラーのことははっきり覚えている!当時、マガジンは130円だったなあ!♪ オヤジからもらって近所のさいとう商店に買いにいったっけ。

 

さてこの本。

漫画家生活58年。ちば作品のすべてを語る。『あしたのジョー』『おれは鉄兵』『のたり松太郎』『あした天気になあれなど数々のヒット作で知られる漫画界の巨人ちばてつや。その漫画家生活は六〇年近くにも及ぶ。近年も執筆のかたわら、大学で若い学生たちに漫画を教え、日本漫画家協会理事長も務めるなど、日本漫画界のリーダーとして活躍している。そんなちばが、自らの「作品」一つ一つに込めた熱い思いを、執筆当時の制作秘話を交えて初めて綴った。ちばが『ジョー』の中で一番描くのが難しかったキャラクターは誰か。『鉄兵』の主人公の身長がだんだん小さくなっていったのはなぜか。あの名作の知られざるエピソードが満載の一冊」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・私が徐さんへの思いが格別なのは、私の漫画の原点をたどれば、あの終戦時に隠れ住んでいた徐さんの家の屋根裏部屋に行き着くからである。昭和21(1946)年に日本に引き揚げるまで、私は「漫画」というものをまったく知らなかった。もちろん子どものころから落書きしたり絵を描いたりはしていたが、それは普通の子供なら誰でもすることだ。そんな私にとって絵を描くのが特別なことになったのは、日本への引き揚げ前に中国人の徐さんの家の屋根裏に住んだ時のことだった。
 
私がそれまでに読んだ童話や昔話を混ぜこぜにして考えただけの話なのだが、絵にして見せると弟たちがわっと喜ぶ。そのわくわくする様子を見て、子供ながらに「描いてよかった」と満足感を感じたのだ。思えば自分が作った絵と話で人を喜ばせることができる」と読者を意識したのは、この時が最初だったように思う。
 
・私のデビュー作『復讐のせむし男』表紙の絵だけは描かせてもらえなかった。貸本漫画の単行本の表紙は、別の漫画家さんか専門の絵描きさんが描くのが通例だったからだ。いきなり石橋国松さんに「原稿料だよ。これは決まりだから」といって現金を渡してくれた。1万2,351円。当時大学出の国家公務員の初任給が8,700円という時代に、高校生の分際でそんな大金を手にするなんて、もう夢見心地で体がふわふわ浮いているようで、すっかり平常心をなくしていたらしい。その時漫画家になりたい」と心の底から思った。何をやっても駄目だと思い込んでいたが、初めて自分の中に「やれるかも」という希望の光が差し込んだように感じたおまえには漫画しかないんだよ」と教えるための神様の思し召しだったんじゃないか。そう考えると人生には無駄なことなんてないなと思う。
 
私にとって漫画とは「人生そのもの」だ私から漫画を取ったら、何も残らない。漫画をなくしてしまったら、私はただの抜け殻になってしまう。ぐずてつ」だったのは、私と漫画を巡り合わせるために神様が画策して下さったことなのだと、今は信じている。その幸運に、髪の采配に、今は本当に感謝している。漫画との出会いがなければ「ちばてつや」はこの世に存在しなかった
 
「高校生で「貸本漫画家」に」「『ちかいの魔球』一年逃げ回った末の週刊連載開始」「餓鬼」「あるインクの話」「蛍三七子」「おれは鉄平」「のたり松太郎」「おもわぬ大病」など。
 
いいなあ。ワタシも将来、「音楽との出会いがなかったら、小野塚テルは存在しなかった」っていいたいわー。オススメです。(・∀・)