男性にとってブラジャーは「外すもの」、女性にとってブラジャーは「つけるもの」ってよくいわれるけど、最近ずーっと外したことないなあ。記憶にないなあ!(笑)「あ、いいです。自分で外します!♡」って言われることが多かったもんなー!♪(笑)(・∀・)
さて、この本。「この男が日本の女性下着に革命を起こした!下着は白が常識の時代に、日本初の「肌色」を考案。日傘をヒントに、世界で初めてブラにレースを採用。女性の身体と下着の一体感を追求し続け、「長時間つけても苦しくない」ブラ作りに奔走50年。「ラ・ペルラ」「シャルレ」など人気ブランドを支え、「キッドブルー」「ランジェリーク」など自社ブランドを大成功に導いたカドリールニシダ会長の経営哲学」そのエッセンスを紹介しよう。
・この本は、難題に挑み、「日本で一番のブラジャーを作ろう」と奔走した西田清美という男性のお話です。彼は若い日、戦後創成期のワコールで働く中でブラジャーに出会い、その後の紆余曲折の経て、38歳で「カドリールニシダ」という下着会社を興します。ワコール、トリンプに次ぐ百貨店売上三位のブランドを有する下着会社ですが、社名をご存知の女性はあまりいらっしゃらないかもしれません。それはここが創業以来長らく「OEM」という業態で仕事をしていたからです。
・長年の女性下着事業への功労が評価され、平成23年の秋の叙勲で藍綬褒章を受賞しました。この本は、86歳になる西田の半生と、カドリールニシダの半世紀をまとめたものですが、実は正しい「ブラジャーについての正しい知識」を女性に知っていただくための本でもあります。
・1951(昭和26)年、西田は、和江商事という小さな社員となっていた。和江商事とは現在のワコールのこと。日本の女性下着業界のトップに君臨するビッグカンパニーである。といっても、この頃の和江商事は女性用のネックレスや髪飾りやブローチなど小間物を扱う小さな装身具商にすぎなかった。見本を詰めたトランクを提げて日本各地を回り小売店を営業して歩く、社員十名余りの零細企業。西田はここに七番目の男子社員として入社したのである。
・佐世保と横須賀の両方から「乳バンドはないか?」と問い合わせが来た。大正以降、洋装は少しずつ広まっていったとはいえ、一部上流階級を除いて、一般にはさほど普及していなかった。「乳バンド」や「乳おさえ」などさまざまな名称で、乳房を押さえるための下着も作られていたが、戦前の日本では胸が大きいのは恥ずかしいことであり、太った人が使うものという考え方が強かったようだ。「ブラジャー」という名称など、まだ日本女性の大半が知らなかった頃の話である。塚本社長は考えた。「これ、自分のところで作ったらどうやろう。これから洋装下着はきっと売れる。大きなビジネスになりそうだ」
・和江商事にとってのエポックメイキング。それが、この裸電球の下での乳バンドの試作であった。それまで、装身具や小間物など、できたものを問屋から仕入れて売るという小商いばかりしていた和江商事が、これからの洋装女性に欠かせないアイテム乳バンドに着目し、オリジナルの製造販売へと、この時大きく舵を切ったのである。
・「今こしらえたんやから一号やけど、もっと早うから作ってるゆおに見せんとあかんやろ。だから101号や!」和江商事は初の自社製品ブラジャー「101号」の開発で、本格的な下着メーカーへの一歩を踏み出したのだったし、はからずも101号の誕生に立ち会うことになった西田の下着屋人生も、ここから始まったのである。
・今となっては不思議な話であるが、当時、ブラジャーは春夏だけの季節商品だった。三月頃から売れ始め、九月になるとだんだん売れなくなり、十月になると売場がなくなる。真冬になると厚着になるので、バストラインなどどうでもよくなってしまうのだ。
・ブラジャーに限らず、商品を外に出して「裸で売る」ということ自体、それまでの小売店では考えられないことだった。三愛という日本一の下着売場で、西田が初めてやったのである。
・「靴と下着は似ている。どちらも着けているのを忘れるようになってこそ」
「どん底時代を経て、創業へ」「ブラジャーというもの」「ライセンスビジネスに取り組む」「エピローグ ~カドリールニシダの今」など。
どの企業でも創業期の話は感動するね。最初から順風満帆にいったわけじゃないもんね。しかし、ここ30年くらい、ワタシはずっと創業期が続いているなあ……いつになったら安定期に入るんだろう!?オススメです。(・∀・)♪