「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「裸はいつから恥ずかしくなったか「裸体」の日本近代史」(中野明)


裸はいつから恥ずかしくなったか ──「裸体」の日本近代史 (ちくま文庫)


いや〜この本はオモシロイわー!!!ビックリしたなあ!もう!(笑)日本人のハダカに関する価値観がガラッと変わるなあ……。 私たちが、ハダカを恥ずかしがるのは、当たり前のことじゃなかった!?昔はハダカが当たり前だった、銭湯も男女混浴だったのだ!?そのエッセンスを紹介しよう。


現代の日本人に共通する裸体観、たとえば公衆の面前で裸体をさらすのは不道徳であり、他人に自分の裸体を見られると恥ずかしいという気持ち、すなわち羞恥の感情が自然と起こるのもその一例である。さらに、異性の裸体から強い性的メッセージを感じ取る、つまり異性の裸体とセックスを結びつけてしまう傾向が強い。これも一般的特徴と言えよう。


・今から150年前の1854(安政元)年に描かれた「下田の公衆浴場」は見れば見るほど不思議な絵である。入浴者が22人、男性が9人、女性が10人、性別を判別できない人物が3人。公衆浴場なのに男女混浴、しかも男女とも異性の前で裸体をさらすことに何の恥じらいもない



・職業にもよるが、裸が仕事着だった人も多かった。男性だけでなく女性も裸が仕事着だった。家で仕事をしていると、暑いとやむを得ず着物もおおかた脱いでしまうので、裸同然の姿となる。一風呂浴びたのち、男でも女でも素裸になったまま浴場から街路に出て、近いところならばそのまま自宅に帰ることもしばしばある。欧米人ならできるだけ人の目を避けようとする行為でも、日本人は何一つ隠そうとしないのである。またそもそも日本人は、性器を隠そうとする意識が極めて低かったようである。


当時の日本人にとって、裸体はダイレクトにセックスと結びつくものではなかった。当時の日本人にとって裸体とはあかたも「顔」の延長、「顔」と同等のものとして考えていたのではないか。さらされた裸体はじろじろ見る対象ではなかった。


日本人の尺度からすると、日常品という裸体からセックスを想起する西洋人は「何と好色な心の持ち主なのだろう」となる。性を徹底的に隠そうとする外国人にとって、無造作に露出される裸体は好奇の対象になる。中でも、女性の裸体は外国人の到来により突如として鑑賞物になる。見られる側は自分の裸を強く意識する、そしてそれが繰り返されるにつれて、見られる側は自分の裸体を隠そうとするのは、ごく自然な流れと言えるだろう。


そもそも日本人は、現代で言うパンツをはく習慣はなかった。ましてやブラジャーをやである。男性は褌、女性は腰巻である。ただ女性の腰巻だと場合によってはその中が外部の視線にさらされてしまう。パンツが普及する要因のひとつに大災害があった。関東大震災もそのひとつである。


女性たちは、陰部の露出がはずかしくてパンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部をかくすパンツが、それまでにないはずかしさを、学習させたのだ。そして性器を見られた時に感じるだろう羞恥心も、前より膨らみだす。


「当時の日本人にとって裸体とはあかたも「顔」の延長、「顔」と同等のものとして考えていた」のかあ!なるほどなあ〜!φ(..)メモメモ 昔の日本人の大らかさがうらやましいよね。オススメです。(・∀・)!



裸はいつから恥ずかしくなったか ──「裸体」の日本近代史 (ちくま文庫)