「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「はかりきれない世界の単位」(米澤敬・日下明)

この本、いいなあ!知らない世界だなあ。こんな単位が存在していたなんてしらなかった!♪(・∀・)
 
 
「ところ変われば物差しだって伸び縮み。あなたの知らない、世にもおかしな世界の測りかた。人間は、何ごとも測らずにはいられない生きもの。「猫がひと跳びする距離」から「日光のなかに浮遊する塵の量」、さらには「宇宙の誕生から消滅までの時間」まで、およそ測れそうもないことを推し量ろうとすることで、科学も文化も発達してきました。知らない単位を使ってみると、世界の見え方だって変わるのです。この本では、近代化とともに使われなくなった、人間味あふれるちょっとおかしな単位を50を紹介」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
現代人は自分で測るということを、あまりしなくなりました。時間なら時計、場所ならGPS(カーナビ)を見れば、一目瞭然。面倒な手続きはありません。しかも正確です。もしも時計やGPSそしてついでにモノサシも消えてしまったら、時間や位置や長さなどは何で測ればいいでしょうか答えは「空」と「からだ」です。太陽や星、月の満ち欠けで、時間や自分の位置を、そしてからだを使って長さを測ることになるはずです。かつて世界のどの地域でも、単位はそのようにして生まれました
 
・中でも単位のいちばんの基準は、やっぱり自分のからだでしょう。西洋のインチやフィートも、東洋の寸や尺も、からだから生まれた単位です。インチは成人男性の親指の幅、フィートは足の長さ、寸はインチと同じように親指の幅、尺は指を広げた際の親指の先から中指の先まで、という具合。
 
・多くの国では公式にメートル法を使用していても、日常の暮らしでは昔ながらの単位が使われていいます。アメリカなどでは、いまだに公式にも採用していません。
 
人のからだを単位の基準にすると、確かに誤差は大きくなります。しかし人のからだやその感覚は、ときにそこらの測定装置よりもずっと敏感でもあります。
 
 
なかなか測りがたいのが、ほかならぬ人間。その感覚を単位化するのは厄介至極です。視力や聴力などは簡単に数値化されているようですが、目利きや音感などの能力は単純に数値には置き換えられるのはごくごく一部。ワインの産地や収穫年まで判別できる人間の感覚は、当分のあいだ数値化するのは無理でしょう。心や気持ちを単位にするのは、まず不可能でしょう。この本で紹介する多くの「まっとうではない」単位や、近代化とともに使われなくなった単位にこそ、科学や文化の「落としもの」や「忘れもの」が隠されているのかもしれません。
 
 
【片食(かたげ)】一日の食事の回数
 
もともと江戸時代に、1日に朝夕2度の食事が普通だったところから生まれた言葉。1日にとる食事の回数をあらわします。単位として、1かたげ、2かたげ、と数えます。漱石の作品にも三度の御まんまを一片食でも好いから他の家で食べようって云うのが」と使われています。
 
 
【トラサレーヌ】日光のなかに浮遊する塵の量
 
 
【ハナゲ】痛さの程度
 
 
【五劫の擦切れ】とほうに暮れるほど長い時間
 
 
【刹那】仏教の最小時間単位(1刹那は1/75秒)
 
 
【カッツェンシュプルング】猫がひと跳びする距離
 
 
【盲亀浮木】ありえないことが起こる確率
 
【ふくら】弓の長さ
 
【柱】神様や仏様を数える単位
 
人柱といえば、生け贄となる人間のことですが、柱はもともと神様や仏様を数える日本の単位。かつては貴族や偉い人を数えるときにも使っていました。現代ならば「3柱の大臣が失言で辞職しました」というように、国会議員や大学教授などにも使えるかもしれません。
 

そうかあ……。しらなかったなあ……。これ貴重だね。残しておかないといけないね。オススメです。(・∀・)p