・この本は、2009年夏に角川文庫の「豊かなる日々」
“まもなく「最後の旅」が始まる。 僕は何を見ることになるのだろうか”
文庫版「豊かなる日々」の後書きに僕はそう書いた。その全てが、 ここにある。
・「今あるのは、テーマは小さいんですけど、 日常の歌ばかりかな。カミサンとの会話とか、この間は、 夜中のタクシーの運転手との会話を歌にしたりして、 ほんとにちっちゃいんで、 それがシングルになるのかということあるけど、 そういうことが今、歌いたいんですね。まあ、 エイベックス的じゃないと言われるものが多いかな」
・拓郎のギター教室というのは、どういうものだったのだろうか。 「あの人のギター教室は、技術指導は一切しない。ギターが “ 生きてるか生きていないか ” “ 歌っているか歌っていないか ” そのリズム感だけしか教えなかった 。 広大のフォークソングはどちらかと言うとクラシックの勉強会みた いで、対極的でしたね」
・改めて取材をする中で、 再認識させられたのは当時の広島での拓郎の傑出した存在感とまば ゆいばかりに才能のきらめきだった。音楽的なレベル、 技術的な裏付け、そして、 形やスタイルに捕らわれない自由奔放な発想。 それは残されているどんな断片的な音源にも刻み込まれていた。 誰もが拓郎に刺激され、触発され、 憧れと影響の中で青春を過ごしてきた。
・2003年に肺ガンに襲われた時、彼は自分のことを「 世界一の弱虫」と呼んだ。あの病気が彼を変えたことの一つに、 それまでの“硬派・無頼・怖いもの知らず” というイメージと違う本音をさらけ出す自然体という有り様があっ たように思う。彼が口にした心の内は、 60歳を超えて新しい船出に臨もうとする率直な本音だったのでは ないだろうか。
・2006年9月23日、吉田拓郎は新しい水夫だった。 年齢は還暦で身体はすでに傷ついても心は真っ新(さら) な新しい水夫だった。 もはや若くない新しい水夫がこぎ出した60代という海ー。 それは、決して穏やかな航海ではなかった。
・「ギター一本でやることなんて全然夢だったわけでもないし。 弾き語りなんて楽しくないんだから、ちっとも。 そこに喜びなんてなにも僕は見出してないので。 一番喜びを見出すのはオケやミュージシャンが多ければ多い程アン サンブルがどう聞こえるかっていう、 その完成度の高さが一番の理想形でね。 そっちばっかり好きなんだから、 そういうことばかりずっと気にしているんだけど、 やっぱり時代とかが求めるものがあると、 それに応えようとするところが吉田拓郎にはあってさ。 音楽はアンサンブルだと思っているから、 それがうまくいったときの喜びは何にもかえられない財産だね」
・“拓郎メロディ”の魅力の一つは、 はかないほどの憂いと切なさだろう。 安易なカタルシスに流れないデリケートな感情のバランスがメロデ ィになる。 軽やかさの向こうに見え隠れする諦めにも似た憂いや哀しみ、 そして陰り。「無題」は、 そんな無常感の中をたゆたうような曲だ。
・僕は音楽が大好きで、音楽を人一倍愛してはいるけれど、 音楽と一緒に自分が潰れてしまいたいとかは思わない。 今まで音楽に壁を感じたとか、 音楽で行き詰まったりしたことがないんだよ。俺、一回も。 音楽で壁を感じたことなんか一回もない。
・吉田拓郎は、類い希な音楽家であるー。 僕は彼のどこに引かれ続けているのだとうと自問する中で、 結局たどり着いたのが彼の音楽だった。 音楽家としての魅力だった。 ジャンルを超えたメロディメーカーであり、 言葉に対して柔軟で鋭敏な感覚を持ったソングライターであり、 独自なリズム感と音楽的快感を備え持ったヴォーカリストでありプ レイヤーであり、天性の耳を持ったアレンジャーだった。そして、 誰も目にしたことのない圧倒的な存在感のパフォーマーということ だった。
・ 時代を象徴したものは時代とともに色褪せる宿命を背負っている。 70年代に同じように登場し、 今も変わらず新しい作品を作り続けている人とそうならなかった人 がいる。吉田拓郎が吉田拓郎たらしめているのは、“イベンター” だったからではなない。彼の音楽的な力量である。
特に、「フォーク村40周年同窓会」NHK「大いなる明日へ〜復活! 吉田拓郎〜」「この貴重なる物語 ツアー終了インタビュー」「奥田民生の「唇をかみしめて」」「 ハワイ・ホノルル“みんなで一緒にハワイに行こう”」「 吉田拓郎・かぐや姫 コンサートインつま恋(1975年8月2日)」「CONCERT IN TSUMAGOI 2006」「リハーサル・ゲネプロ」「 名古屋国際会議場センチュリーホール」「東京国際フォーラム」「 吉田拓郎展」など。
いや〜いい、良い!これを読みながらBGMは、『18時開演』だよ。感動、感動っ!国民栄誉賞だよ、ぜったい!超オススメです。(・∀・)