私の永遠のヒーロー、吉田拓郎。1970年代からミュージックシーンの先頭に立って疾駆してきた吉田拓郎。
「その歌の魅力、果たしてきた役割をエッセイやインタビューで振り返る。作詞作曲をし、自作の歌を歌うのはもちろんだが、文学詩やエッセイもこなし、多様な才能を発揮し続けている吉田拓郎。本書は、いくつもの顔を持つ吉田拓郎の「中心」である歌の世界にスポットを当て徹底解剖する。スタジオ録音全作についてのレビューを掲載」そのエッセンスを紹介しよう。
【吉田拓郎讃 あとがきにかえて】(編集部)
吉田拓郎は、1970年代以降の日本のポップス・シーンにおける最重要人物である。ボブ・ディランに憧れて出発した彼だが、ディラン風の日本語フォークを作り出したことは、彼の仕事の中心ではない。それより、自らヒット・ソングを生み出し、あるいは既存の歌手に曲を提供してヒット・ソングに仕立てていったことが、ここ40年ほどの日本歌謡の歴史の中では大きい。
彼の存在と活動がなかったら、いわゆる「ニューミュージック」は誕生しなかっただろう、ニューミュージックが誕生しなかったら、いまの日本の流行歌の世界は全く違うものになっていただろう。本書は、そんな吉田拓郎が人として、歌手として、ソングライターとして、企業経営者としてどんな過去を作ってきたかを明らかにしようとする意図で企画した。
・1970年。吉田拓郎の歴史。それは日本の新しい音楽の歴史である。70年4月25日。それが吉田拓郎の曲がレコードになって、この世に出た最初の日である。『古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう』そんなタイトルのアルバムだった。11月「青春の詩」発売。
・1971年。ライブLP「オンステージともだち」を発売。岐阜県中津川市椛の湖、第三回全日本フォーク・ジャンボリー。万を超えるメイン・ステージの客に、数百名に満たないサブ・ステージの拓郎。PAトラブル発生。拓郎は待機していた小室等と六文銭をステージに呼び、一緒に「人間なんて」を演奏し始める。1時間後、サブ・ステージの客は倍に膨れ上がり、拓郎は、まだ「人間なんて」を叫んでいた。
・1972年。シングル「結婚しようよ」「旅の宿」アルバム「元気です」の大ヒット。四角佳子と結婚。
・1973年戦後の日本の音楽の流れを、こんなふうに分けることができるかもしれない。こうだ。拓郎以前、拓郎以後。音楽業界がどう変わったか。その変化の激しさは、そんな分け方が誰の目にも明らかなほどだった。
・「あなたのフェイバリット・ソングはどれですかと聞かれても困っちゃうんです。1回1回、その時は一生懸命やってきましたから、1枚終わったらもう次のことしか考えない。終わっちゃったものはもういいって感じがすごく強いですからね。とくにミックスダウンなんかやってる時は、全曲を何百回と聴いてるわけですから、ほぼ飽きてますね」
「言葉はなるべく切りたくないんです。どんな稚拙な言葉でもそのままいきたいっていうのがあるんですけど、さすがに周りが言いますね、くどいって(笑)。若いころはくどいくらいでよかったかもしれないけど、40過ぎてからくどいのはまずいかなって。ぼくなんかの場合、作業の大半が詞を作るってことですから。それでも、なかなか作れない。結局だらだらと「何言ってんだ」ってのもあるんですけどね。それをたたみ込んで歌うから、だれも歌えない。」
拓郎が生きている間に国民栄誉賞をもらってほしい。いつまでも私のヒーローでいて欲しい。拓郎ファン必読です!(・∀・)!♪