「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「吉田拓郎 疾風伝 駆けぬけた40年!」(石田伸也)

 


吉田拓郎 疾風伝 「中津川」から「09年ツアー」まで、駆けぬけた40年!


中学校の卒業文集に書いた。「尊敬する人 吉田拓郎。当時からもう40年以上のファン歴だ。いや、ファンどころではない、私にとって永遠のヒーローである。久しぶりに「聴く拓郎」ではなく、「読む拓郎」で、拓郎にまみれたい!と思ったのは、10月の拓郎ライブの余韻がまだ続いているからだ。改めて拓郎の歴史をこの本で振り返ってみたい。そのエッセンスを紹介しよう。


MUSIC〜『吉田拓郎 LIVE 2016』(東京国際フォーラム
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20161020


・1975(昭和50)年8月2日午後5時から翌朝の日の出まで、前代未聞のオールナイト野外イベントが敢行された。静岡県掛川市のリゾート施設つま恋』に5万人もの顧客を集め、吉田拓郎と『かぐや姫』が朝まで歌い続ける。それは日本において誰も挑んだことのない規模だった。東京ドーム級の公演が頻繁に行われる現在と違い、当時は1万人収容の日本武道館ですら、日本人の単独公演は実現していない。チケットはわずか1ヶ月で完売。5万人集まることの実感もつかめず、12時間もの長丁場を乗りきれるのだろうか。最後まで過ごせるものだろうか。


・ここから綴っていく物語は、吉田拓郎が放ってきた「現象」を、吉田拓郎に酔いしれた人々の「熱狂」を、今再び検証するものである。たとえばビートルズ音楽史におけるひとつの「ジャンル」とするならば、拓郎は日本におけるひとつの「時代」そのものだった。その輝きは超新星に等しく、たゆまぬ光を放ち続けてきた。そんな拓郎史にあって、もっとも輝きを究めたのがつま恋』という名の奇蹟である。



▲ フォークシンガーとして第一歩を刻んだコロムビアのコンテスト(1966年)


今では誰でも当たり前のように「コンサートツアー」を行うが、その開拓者こそ拓郎にほかならない。70年代前半、各地のコンサートは複数のアーチストが集まった形で実施されていた。拓郎は、日本中どこへでも、首都圏と同じ照明や音響を運び、自分の顧客のために歌うことを決意する。また、それを実現するだけの動員力があったことも事実だ。72年に発売した『結婚しようよ』『旅の宿』のシングルは連続で大ヒットし、アルバム『元気です』は13週にわたって首位を独走している。その年の10月バンドを従えて本邦初の「コンサートツアー」という旅に出る。拓郎は時代の寵児へと駆け上がっていった……。


「今のアーチストが10万人、20万人の観客を集めても驚かない。あの時代に拓郎は音楽シーンの原野を切り拓き、ブルドーザーで開梱していった。その象徴が『つま恋』だった」主催者発表5万人、警察発表は7万5千人、消防法などの配慮を考えれば、おそらく警察発表のほうが実数に近かったのだろう」(富澤一誠


あの夏、誰もが「吉田拓郎」になりたかったジーンズをはいて、ギターとブルースハープを鳴らす姿に熱狂した。60年代の少年たちが「長嶋茂雄」に憧れたように、70年代の男たちには拓郎こそが模倣の対象だった。


・拓郎における「1975年の奇蹟」は、このライブだけではなかった。6月1日、拓郎・陽水・泉谷しげる小室等の、俗に言う「フォーク四天王」によって「フォーライフレコード」が設立されたことである。小室が代表取締役、拓郎ら3人には「取締役プロデューサー」の冠がついていた。アーティストみずからレコード会社を作り、しかも要職に就くという方法論は空前にして絶後だった。〈私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうかー〉これが設立時のキャッチコピーである。


・当時の芸能界の王道にいたのは間違いなく「歌謡曲」である。それが1枚2000円以上のアルバムが飛ぶように売れるということは、いよいよ「フォーク」が音楽ビジネスの主流になったことを意味した。


吉田拓郎を「日本のビートルズ的な存在」と称したのは、『スピッツ』の草野マサムネ。それは拓郎の豊富なオリジナルだけでなく、数々のアーティストに多くの「ヒット歌謡」を提供してきたことにも由来する。稀代のメロディメーカー、いや、おなじみ深い言葉で言うなら「拓郎節」だ。吉田拓郎「フォークの貴公子」として表舞台に駆け上がった2年後、「演歌との融合」を試み、あっさりと頂点に立った。それは日本の音楽史にとって〈分水嶺〉と取り払う出来事だった。74年、森進一の『襟裳岬が誕生した火のことである。


・拓郎と後藤由多加(ユイ音楽工房社長)は、いわゆる芸能界的なシステムに背を向ける。テレビの歌番組に1曲だけで出演することを拒否した。音楽誌には出るが、女性誌芸能誌には出ない。かつてないポリシーにメディアと軋轢が生じたが、若者立ちは拓郎のやり方を支持した。「それでもテレビは拓郎を出演させたい。じゃあ、3曲分の時間をくれるならと、拓郎再度は断る方便として条件を出した。結局MHKを含めていくつかの歌番組で拓郎の『3曲ミニリサイタル』がオンエアされることになった。アーチストがテレビ局に対して風穴を開けた最初の瞬間です」(富澤一誠


「何てゆう歌ば書きよるとか、こん拓郎って男は!」「吉田拓郎の声には、若者の血をたぎらせるアルコールが混じっている」(武田鉄矢


・拓郎が切り拓いてきた音楽シーンでの功績は、球界では長嶋茂雄にたとえられる。どこか求道者的な井上陽水王貞治ならば、野性的な拓郎は往年の長嶋茂雄そのものだ。ただし、長嶋さんも王さんも監督という道の続きがあった。だけど拓郎さんには、ファンの誰もが現役でいることを求めている。しかもリリーフじゃなく、先発完投しか望んでいない。長らく「吉田拓郎」を背負い続けることのハードさは、拓郎さんにしかわからない


吉田拓郎は奔放で、井上陽水は緻密ー少なくともライブにおいては、そんな印象を持っていた。それが、まるで逆だったことに女性パーカッションの三沢泉は驚いた。いや、正確には「ラフなステージに見せるための緻密なリハーサルを重ねる」というのが拓郎流だった。


いや〜シビれるねえ…過去、何百万人、何千万の人が拓郎から影響を受けたのか…。改めて拓郎の歌に触れたい、最初から聴き直したい。オススメです。(・∀・)


 


吉田拓郎 疾風伝 「中津川」から「09年ツアー」まで、駆けぬけた40年!