「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「豊かなる日々 吉田拓郎2003年の全軌跡」(田家秀樹)

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入院中、退屈な病室に、妻にお願いして、持ってきてもらった本が数冊ある。その一冊がコレ。吉田拓郎は、ワタシと同じ57歳で肺ガンとして診断され、ワタシは肺炎。肺を病むとどうなるんだろう?病室で何を考えたんだろう?その心境が知りたかった。
 
『何で俺が癌になるんだ。何で俺なんだって、世の中の理不尽さを恨んだ』

2003年の3月、突然の肺癌を宣告された吉田拓郎。告知から、摘出手術。そし
て復活。その後、彼は念願のフルオーケストラを率いた全国ツアーを大成功させ
た。その軌跡を、幾度にも渡るインタビューと、細かな周辺取材で綴った復活へ
のドキュメンタリー。生きることの意味は何か、そして、吉田拓郎の音楽とは何
を伝える、感動の一冊。

『これからの人生を少しでも豊かにしたいという願い。それは若い頃にはなかっ
たことだし、病気をしてなおさら強くなっている。俗っぽいけど、愛とか平和と
いうものが、非常に大事になっている。若い頃のように突っ走ってきた生き方も
素敵だったんだけど、これからは違うスタンスで、違うテンションで生きていき
たい。それもまた楽しいかなと思うんだ』そのエッセンスを紹介しよう。

 
・人の一生には何が起きるか分からない。
吉田拓郎と肺ガン。
そのニュースは、僕らの世代の何かを打ち砕いた。人はいつか死ぬ。
二度と立ち上がれなくなる時が来る。
1973年と2003年。その間にあるものー。
誰もが若者のままでは生きていけない。
そして、ある日、その人生の終わりを宣告される時が来る。
でもそこからもう一度立ち上げることも不可能ではない。
2003年はそんなことを教えてくれた年となった。
 
ガンだと言い渡された4月5日は、57歳の誕生日だった。
“病室内にツアー用に購入した、お気に入りのグレッチを持ち込んで、
左手指のギターたこを復活させるべく
夏のツアーでやるはずだった曲のコードを練習しています”
 
「おやじ、おふくろ、今生きている兄貴、姉貴、僕は吉田家の一族としては足んないなとか、いろいろ思ったね。足んないなって思って泣いた」
 
集中治療室という部屋自体がもう怖いんです。9時に消灯なんだけど、自分のところだけは点けといてくれって言った。あそこに2泊、3泊は出来ません。1泊した次の朝から医者に泣きついた。頼むから出してくれ、ここからって。集中治療室は怖いところです」
 
手術が終わって3、4日経った時に、僕の病室にギターを置いてもらったんだけど、それを弾きたいなあという気持ちになって。あちこち痛くてチューブもいっぱいつながってて、ロボットみたいなんだけど、それでもギターをさわって、少し弾いてみた時に、ああ、歌を歌いたいなと思った
 
「やっぱり息継ぎの問題とか、歌い回しみたいなことに関しては、本人にとっても、もどかしい部分が相当るようですし、染みついている歌の構成とかありますからね。身体が覚えている息継ぎとか。そこは変えていく必要とかはあるんじゃないでしょうか。歌っていうのは楽器と違いますし、しっくり来ているかどうか本人の感覚じゃないとわからないんです
 
吉田拓郎的生き方ー。もし、そんな表現が出来るとしたら、それは何なんだろうか。彼は「新しいことを求めていく、ということじゃないでしょうか」と言った。吉田拓郎は、日本の大衆音楽の“新しい水夫”として鮮烈な登場を果たした。そうやって新しい舟の水夫となった彼と、その舟に乗り込んでいった同年代や、その下の世代の聞き手たちが、今、古い水夫になとうとしている。もはや自分のことを“新しい”と思えなくなった水夫たちが、どんな風に舟を操ろうとしてるのか。拓郎の肺ガンはそんな世代的風景を浮かび上がらせたのかもしれない。
 
・(右の脇腹とかは、ギターを弾いたりする時にには支障はないんですか)「ありますよ。率直に言えば、手術前にギターを弾いてる時の自分とは全然違います。右半身の筋肉の使い方とかは、左側と全然違います。じっとしているだけでも違和感があるわけですから。これは、非常に不愉快です。」

 

ちょっと歌ってみるとやっぱり声量が出ないよね。それと音程が少し狂う。早く全快で歌いたいなあ。57歳から生まれ変わるぞー!オススメです。(・∀・)

 

 

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