そのエッセンスを紹介しよう。
・桑田佳祐の歌詞など、まともに読んじゃいなかった。 日本語の歌詞を、どうビートに乗せるか、 絡ませるかという方法論の開発が桑田の最大の功績なのだから。 極論すれば、 歌詞だけ取り出して云々してもしょうがないだろうと、 私はずっと思っていた。「たまにゃMakin'love そうでなきゃHand job」エロい!
まず驚くのは、桑田佳祐による歌詞が表す世界の広さだ。 ラブソング、エロソング、コミックソング、ナンセンスソング、 そしてメッセージソングと、守備範囲がべらぼうに広い。 野球のフェアゾーンをたった一人で守っている感じがする。
次に驚くのは深さだ。広い広い歌詞世界を下支えする根本思想。 私は、それを「ロック音楽は、何を歌ってもいいんだ」という、 長い音楽家人生で、 桑田佳祐が決して手放すことのなかったドグマだと捉える。 さらに言えば、日本国憲法の「表現の自由」ひいては「 戦後民主主義」を、もっとも謳歌し、 満喫した日本人としての深みが、桑田佳祐の歌詞にはある。
【勝手にシンドバッド 1978年6月25日】
「そのとき歴史が動いた」という言い方は、 日本ロック史において、この曲が、 歴史をググっと動かしたということに、 異論を挟む向きは少ないだろう。日本ロックの転換点。《 勝手にシンドバッド》以前/以後ー。はじめの一歩が、「 すなまじりのちがさき」と音にして10文字。終わりが「 胸さわぎの腰つき」(むなさわぎのっこしつき) とこちらも10文字。音韻的にもかなり近似している。
「胸さわぎの腰つき」の意味不明さ。(そもそも「 勝手にシンドバッド」自体も意味不明だが)言い換えれば「 意味から自由奔放」。桑田佳祐の言葉がもたらした、 最も大きな功績はここにある。どんな腰つきなのか、 まったく意味がわからない。
「砂まじりの茅ヶ崎」と「胸さわぎの腰つき」 のサンドイッチ構造は、掛け値なく《勝手にシンドバッド》 の革新性を体現している。「江ノ島が見えてきた」は、 この一見珍奇な曲に大衆性を与えている。78年8月31日夜、 TBS『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」で『 勝手にシンドバッド』の演奏が終わった瞬間、 日本ロックが一段上の地平に跳ね上がった。 見えてきたものは江ノ島と、新しい日本ロックのありようだ。
【いとしのエリー 1979年3月25日】
この曲がなければ、後のサザンはなかったと思う。 サザンがなければ、日本のロック史も、 まったく違う方向に向かっただろう。
「誘い涙」って何だ?「みぞれまじりの心なら」「 泣かせ文句のその後じゃ」も、実に独創的で、かつ奇妙である。 この3つに共通する感覚がある。それは「湿度」だ。「 濡れている」ということだ。
途方もなく広大な桑田の歌詞世界の中で、 最も大きな区画を占めている情緒・情感は「センチメント」と「 メランコリー」である。そしてその3つはすべて、 その区画にすっぽりと収まる。これは言ってみれば、 日本語ロックにおける「言語革命」の痕跡である。
いまごろになって「たまにゃMakin'love そうでなきゃHand job」って歌っていたって、気づきました。実に深い!!!オススメです。(・∀・)