「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康」(小名木善行)

全作品読破を狙っているねずさんこと、小名木善行さんの本。 なぜ、この人は、こんなことまで知っているんだろう?誰から教わったんだろう?どんな本を読んできたんだろう?と感心している。(・∀・)

 

激動の戦国時代を勝ち残り、世界一の都市江戸を作り上げた家康。どのような人と出会い、人生を歩み、どのような経験を積んだのか。通説とは違う真の家康像を知れば、日本という国のすばらしさ、日本人のあるべき姿が見えてくる」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・家康が築いた江戸時代は、まさに道徳と平和の時代であったと言われています。モノよりも心を大切にする社会です。家康が意図して作った江戸日本が、ある意味、これからの日本の、そして世界が進む新しい時代の、いわばお手本になろうとしているのかもしれません。そこであらためて、家康という人物そのものというより、家康に影響を与えた人々と通じて、家康像を浮かび上がらせようとしています。なぜなら人は情報によって生きるものといえるからです。家康がどのような情報を持ち、その情報は新しい国造りに活かしてきたかを考えたいのです。
  
・この時代、出家と言えば、今生での死を意味しました。この世に生を受けて以来取得したすべて(名前も親兄弟も身分も財産も)捨てて、ただ仏門に帰するのです。つまり四歳の今川義元少年は死んで御仏の使いの僧侶となっていたのです。
 
・問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、その仏教が、我が国において、巨大な武装政治圧力団体になってしまっていたことにあります。仏教を否定するとか、そういう意味ではありません。鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあった一方で、世俗的な意味での仏教組織の肥大化と武装のことを申し上げています。仏教は、伝来からわずか42歳で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。これが西暦594年のことです。つまり仏教は、たった42年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。
 
・こうして千年続いた仏教界の武装勢力を、根本から叩き潰したのが、信長でした足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も仏教界の武装勢力の首に鈴をつけることができなかったのです。信長は、これをやったのです。
 
信長は天下をほぼ統一し、武装仏教勢力まで退治しましたけれど、そのために宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。
 
戦国大名というのは、いわば軍閥ですから、より強大な軍事力で逆らう者たちを黙らさせることができます。しかし仏教勢力には、信仰があります。これはやっかいです。といって仏教徒を皆殺しにすることはできません。こうした中にあって、国内に根付いている武装仏教勢力だけの力を削ぐことで、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先の自分ひとりに向けさせた上で、できるだけ派手に死ぬ。病で死ぬのではダメです。自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなければなりません。そしてそれができるのは、織田軍団のなかでは明智光秀ただひとりです。光秀は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく朝廷や仏教界からも信任が厚い男です。
 
しかし光秀が主君を討てば、彼自身は逆賊の汚名を着せられます。ですから光秀も誰かに殺されなければなりません。そしてその者が天下人になる。これでえみんなが納得する。そして光秀を倒して天下を担う者は宗教以上に人々に夢と希望を与えることがdけいる人物でなければなりません。とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉
)が、まさに適任です。家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快は夢物語は他にありません。何しろ当時の日本人の人口は95%以上が農民です。つまり秀吉は、どんな宗教に現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴する存在になり得るのです。
 
明智光秀は、秀吉にか負けて百姓の竹やりで殺されたということになっています。けれど本当にそうなのでしょうか。光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人に百姓に殺されたりするでしょうかむしろ殺されたということにしうて、身分と名前を捨て、どこかで僧侶にでもなって、後日の秀光の才覚を活かすことを考えた方が合理的です。実際、不思議なことに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、細川家であったり、織田家に入ったりして、みんな生き残っています。ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、生き残っているのです。
 
・さらに不思議なことに、家康が江戸幕府を開いたとき、新たな国の枠組みを決めるのに、大いなる貢献をしたのが、天海僧正です。不思議なことに出自がまるでわかりません。歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕府体制の仕組みを一から作り、日光東照宮のような文化施設まで造っているのです。
 
・さらに三代将軍家光「光」の字は、光秀の「光」二代将軍徳川秀忠「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説もあります。家光を育てた春日局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局「お久しゅうござざいます」と言ったという話が遺されています。また天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか家光の家紋である桔梗です。その日光には、なぜか明智平というところがあります。東照宮の陽明門は、なぜか明智の桔梗を身に着けた武士の像が置かれています。それが誰の像なのかは誰にもわからない。
 
もっというと大阪の岸和田にある本徳寺には光秀の位牌があるのだけれど、そこには光秀が慶長四(1599)年に寺を開いたと書き残されています。これは不思議なことです。光秀が死んだのは天正十(1582)年のこと。死んだはずの、その17年後に寺を建てたというのです。その本徳寺には、光秀の肖像画が残されています。その画には、「放下般舟三昧去」という文字があります。文字の意味は光秀が出家して僧になった」という意味です。
 
・もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡佐渡)、と光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)網目のような六角形ができあがります。童謡の「かごめかごめ」は、「かごめ」が地理上の大きな籠目を指し、「カゴの中の鳥」はの「とり」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏いついつでやる」です。そして「夜明けの晩」とは、日の出のときです。つまり「日の光」が射す日光です。その日光東照宮の屋根には「鶴と亀」の像があります。その鶴と亀」が「統べた」、つまり統治する…と、ここまでの意味をつなげると土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となりうしろの正面だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。つまり、かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを歌った童謡であるというのです。これまたおもしろい説です。こうした筋書きをみると、本能寺の変は、光秀が企画して、信長が決裁し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのかもしれません。
 
 
「第一部 今川義元と家康」「第二部 信長と家康」「第三部 秀吉と家康」「家康の少年期を形成した今川、松平、織田」など。

 

ほんと、素晴らしい!歴史の教科書「強化」して「強化書」になってほしい。「日本のかっこよく!」オススメです!(・∀・)