
ワタシの「テル」は「輝」と書く。兄が「秀敏」、弟が「敏広」、そして、ワタシが「輝」。父が「三夫(かずお)」母が「久美」、そしてワタシが「輝」。(笑)
父が「この子は、日本だけじゃなく、世界にでていく。そのときに、短くて、呼びやすくて、覚えやすくて、世界に通用する。ウィリアム・テルという人もいた。そして「輝く」と書く。とって起きの名前だ!」というのが由来なのだ。とても良い名前で本当に感謝している。(=^・^=)
さて、「輝」といえば、子どもの頃、NHKで見ていた宮田輝アナウンサーだよね。同じ名前ということもあり親近感がある。そして今回、ふっと手に取ったのがこの本。
「のど自慢」「ふるさと歌まつり」「紅白歌合戦」の名司会で日本中を熱狂させた、昭和を代表するアナウンサー、宮田輝。だが、なぜか評伝らしきもが書かれたことがなかった。田中角栄に口説かれ、NHKを定年前に退職して、参議院議員になったことがその理由なのか? それとも……。本書は未亡人の恵美さんに信頼された筆者が、宮田家から膨大な資料の提供を受け、初めて挑んだ本格評伝。宮田が歩んだ道のりは、まさに昭和の日本そのもの。数々の番組の裏話や著名人のインタビューもあって、エンターテインメントとしても楽しめる1冊。みのもんた氏など他局の後輩アナウンサーの目標ともなった宮田の司会術の奥義も面白い。古き良き昭和を切り取った力作」そのエッセンスを紹介しよう。
・忘れられない場面がある。昭和四十年代に放送された「ふるさとの歌まつり」で司会の宮田輝アナウンサーが会場に客席に降りて、観客にインタビューする。相手は、体育館の床に敷いた座布団に座り込んだ着物姿の老いた女性。彼女は手を合わせながら宮田さんを迎える。そして満面の笑みでこう言うのだ。「宮田さんに会えて良かったよ。もう死んでもいいよ」「そんなこと言ってはいけませんよ」と笑いながら彼女を見つめる。アナウンサーが日本に誕生して九十年余。ここまで言われたアナウンサーがいるだろうか?ここまで真摯に人に向き合ったアナウンサーがいるだろうか。
・一方で宮田さんほどアンチ派の多いNHKアナウンサーはいない。「わざとらしい」「慇懃無礼だ」「田舎や地方を馬鹿にしている」それほどの有名人だったからこそ、突然番組を降板し政界に進んだときには「忽然と消えてしまった」そんな印象すら与えた忘れられた人なのだ。
・宮田輝アナウンサーの歩みは、大きく三つに分けられる。第一期は戦中時代。昭和17年にNHKアナウンサーに入局し、二年足らずで東京放送局へ移動。第二期は戦後、一般の人々が番組に登場する視聴者参加の公開放送が次々に誕生した。「のど自慢素人音楽会(のど自慢素人演芸会)」だった。素人の出場者に歌ってもらった上にインタビューにも答えてもらう。当時の人々はマイクを向けられることに慣れていない。エース級のアナウンサーを入れ代わり、立ち代わり登場させたものの苦戦した。昭和24年、六人目の司会者として登場したのが宮田アナウンサーだった。出場者との軽妙なやりとりは絶大な人気を博し、やがて「NHKのど自慢」として定着し今日に至る。宮田アナの存在は圧倒的だった。降板した時は「宮田ロス」のような状況になって一時は番組廃止論まで出るほどだった。
・並行して「三つの歌」、は64%という当時最高の数字を記録した人気番組。「紅白歌合戦」は昭和28年の第三回から司会を務め、やがて「NHKのの顔」と呼ばれるようになる。そして「ふるさとの歌まつり」。当時、地方都市に与えた影響は絶大だった。驚くのはこの番組は宮田さん自らが企画したもので、長年かけて提案を通し実現させた文字通りNHK時代の集大成だった。「おばんです」という言葉に人々は心弾ませた。
・宮田さんは、番組スタッフから「親方」と呼ばれていた。その風貌といい、実績、周囲への影響力からしてもまさに言い得て妙。「いつも聞き役、ひかえめな人」「怒ったところを見たことがない」「気づかいの細やかな人」。放送史上に残る人でありながら、宮田アナウンサーの人となりや言葉を伝える資料は皆無に近い。生涯を通じて自らについてはほとんど語ることのない人だった。そんな宮田輝さんに、わたしはなぜ関わることになったのか。
・わたしはアナウンサーたちの足跡を通して、放送創世記から昭和39年の東京オリンピックというテレビ時代の幕開けまでの歩みをふりかえっていった。NHKラジオセンター^にリスナーからのFAXやメールが次々と届いた。その中で最も強烈な印象を与えたのが宮田輝アナウンサーだった。同時に、取材の過程で一番苦労したあのも宮田アナウンサーだったのである。
・亡くなった父親が宮田アナウンサーファンでいつもラジオ番組を楽しみにしていたという方で、今回、宮田さんの声が流れるやいなや急いで携帯ラジオをお仏壇に持っていき、「ほら、お父さんが好きだった宮田輝さんだよ」そう言って、父親の位牌に向かって聴かせてあげたというお便りだった。そこまで愛され慕われるアナウンサーがいたという驚きと感動があった。
・ふだん人前で話すこともないであろう子どもやお年寄りが、なぜ宮田さんの差し出すマイクに向かうと嬉々としてしゃべり出すのか。まるで催眠術か魔法にでもかかったように。そして当時の人々はいったい宮田さんのどこに魅了されたのだろうか。
・「虫眼鏡で調べて、望遠鏡で放送しろ」放送に入る前には徹底的に取材しろ、いざ本番ではテーマを一本に絞り大局観に立て「十のことを取材しても、放送で出すのは、そのうちの一つか二つだ」調べたことを使い切るな。吟味しろ。そこに生まれ精神的余裕が本番を支えてくれる。「フルコースのアナウンサーたれ」(和田信貴 語録)
・宮田輝というアナウンサーは稀有な存在である。ジャンルを超えたスケールの大きな仕事ぶりは空前絶後だとわたしは思う。それを可能にした取材力、企画力、演出力、表現力、そしてリーダーシップ。さらにもうひとつ。現代のわれわれが遠く及ばないもの、それは技術を超えたものだ。「人間力」とでもいえるだろうか。放送番組とともに人間的成長を遂げてきた輝さん。その力は、放送現場における地道な歩みの中で育まれていったものに違いない。
・「ナマの放送だから、云われてしまってからでは消しゴムは利かない」
・「お名前をどうぞ」「青山一郎です」「渋谷の青山さんですね…ありがとうございました」
・「残念でした。ご職業は」「時計屋です」「そうですか。もう一寸ゼンマイを巻いていただければよかったのですが」
・函館西高校に年生の大野穂(北島三郎)十七歳。「落葉しぐれ」を歌って鐘二つ。合格はできなかった。しかし、この時交わした輝さんとの会話が、その後の少年の人生に大きな影響を与えた。「残念でした!いい声してたのにねぇ……学生さんですか?お上手でしたよ!」輝さんのこと言葉が少年の人生を決めた。
・「やりとりは、それだけ。だけど、宮田さんのあのときの声、あの言葉は、生涯忘れないよ。人生のひと言だよ。あのときの宮田さんの言葉が背中を押してくれたんだからさ、ああ、俺もひょっとしたら歌の世界でやっていけるんじゃないかって。高校生だったオレの背中をさ」その後、上京。渋谷での流しの生活を経て北島のサクセスストーリーは展開していく。
・国会での大舞台、輝さんがまず心がけたのは、質問にたったときの第一声、「つかみ」の工夫である。

