「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「我が心の博多、そして西鉄ライオンズ」(岡田潔)

 
福岡のウチのオフィスから歩いて十数分のところに平和台野球場がある。あの西鉄ライオンズの本拠地だ。ワタシの野球に興味を持ち始めたときには、西鉄ライオンズは、太平洋クラブライオンズとなっていた。その後、西鉄の黄金時代、黒い霧事件、そして球団身売りのことなどを知ることとなる。今でも残る西鉄ライオンズの記事を見ると、こんなすごい球団が存在していたことに感慨深くなる。それを福岡にいて西鉄という字を見るたびにその歴史をひしひしと感じるのだ。
 
さて、この本。「小汚い映画館でスターを夢見るお兄さん。気高く生きる、色街のお姐さん。豪快に戦う野武士軍団と、彼らに憧れ、デコボコの広場で白球を追う少年たち…。博多育ちの演劇プロデューサーが、人が人らしく生き得た時代を縦横無尽に語り尽くす」そのエッセンスを紹介しよう。


・昭和53年の秋、久しぶりの帰福であった。その日もお決まりのラーメン屋へ。博多のラーメンは日本一、いや世界一の麺類だと思っている。コクのあるスープを一滴も残すまいと啜っている時である。ラジオからクラウン身売りの報!しかもである。我ら西鉄ライオンズは、博多っ子いや九州っ子の手の届かないところへ行ってしまうというのである。
 
終わった!半世紀もの間、自分の中に棲みついていた懐かしき祭りを、まるで傍若無人に、中央の手垢のついた奴らが奪っていくラジオから流れてくるアナウンサーの声に、あのかつての平和台球場のどよめきが、野武士のライオンズ選手の一投一打がライオンズが勝つことで衣食住を忘れた幸福な時間が、そして太平洋クラブクラウンライターズに身売りされてもなおお声援を送り続けてきた無名のライオンズファンの顔が、声が、オーバラップしてくる。
 
戦後九州に文化があったとすれば、それは「西鉄ライオンズに他ならない。文化は上から見下すものでもなければ、下から見上げるものでもない。その土地に生活し、自分の地位、名誉、富に関係なく、純粋にキラキラと輝く無垢なる存在、それが我らが西鉄ライオンズであった。
 
ゲルマニウムラジオから聞こえる放送に一喜一憂した少年たちは今やおじさんになっている。がしかし、まだまだくたばるわけにはいかない。あの日あの時の西鉄ライオンズを取り戻すためにも……。
 
・今思うに、大下弘のバッティングセンスは、モーツァルトの曲に相通ずるものがあるように思う。繊細にみえる華麗なるフォーム、右足をヒョイと上げるタイミング、軽いのである。天才は、いとも簡単にやってみせるのか?一所懸命とは程遠いイメージである。「軽い」という言葉を実感できた最初のことである。大下弘は、勝負師として、その不可欠の条件を兼ね備えたといえるのではないか。その大下弘もすでにこの世にいない。あの世で野球を忘れ、酒と女の日々に違いない。
 
西鉄ライオンズ、宝劇場、炭鉱、遊廓、どれもこれも、あの時代だからこそ存在し得たのではないだろうか。他人の体温を十分に感じられる時代だったからこそ……。
要するに、今は「祭り」が死語になってしまったのである。あの時代のすべてに祭りの精神が充満していた。
平和台球場に向かう時の気持ちの込め方、花火大会における朝からの場所取りのエネルギー、お目当ての映画を待ち続ける気持ちの高ぶり、運動会における各町内の盛り上がり。どれもこれも、ただ単に楽しむというレベルではないのである。ひたすら、のめり込む精神、一体化しないと気が晴れないのであろう、同次元まで自己を推し進める
エネルギー、これが祭りの原点ではなかろうか。
 
かつての我がライオンズは、劇的なる集団であった。三原脩という才ある演出家を筆頭に、名優揃いであった。二枚目あり、立役あり、悪役あり、脇役あり、こんなにも役者が揃っていた劇団、いや球団も過去、現在、皆無ではなかろうか。
 
さらば、博多。末広長屋。さらば、平和台球場……。我が心のライオンズ。西鉄ライオンズの勇士たちが、平和台球場の大観衆の声援に送られて、何度も何度も、ボクのホームベースを駆け抜けていく……。ボクの血肉となり、背骨をきっちりと通してくれた博多の街が、顔が、見るみるうちに遠ざかる、漆黒の彼方に……。
 

いいなあ…。ライオンズ、ナマで見たかったなあ。なぜ、西鉄ライオンズにこんなにも惹かれるのだろう。ひとつのチームがなくなるってトンデモないことなんだね。野球ファン必読。オススメです。(・∀・)