福岡のウチのオフィスから歩いて十数分のところに旧平和台野球場がある。あの西鉄ライオンズの本拠地だ。ワタシの野球に興味を持ち始めたときには、西鉄ライオンズは、太平洋クラブライオンズとなっていた。その後、西鉄の黄金時代、黒い霧事件、そして球団身売りのことなどを知ることとなる。今でも残る西鉄ライオンズの記事を見ると、こんなすごい球団が存在していたことに感慨深くなる。それを福岡にいて「西鉄」という字を見るたびにその歴史をひしひしと感じるのだ。
さて、この本。「小汚い映画館でスターを夢見るお兄さん。気高く生きる、色街のお姐さん。豪快に戦う野武士軍団と、彼らに憧れ、デコボコの広場で白球を追う少年たち…。博多育ちの演劇プロデューサーが、人が人らしく生き得た時代を縦横無尽に語り尽くす」そのエッセンスを紹介しよう。
・昭和53年の秋、久しぶりの帰福であった。
終わった!半世紀もの間、 自分の中に棲みついていた懐かしき祭りを、まるで傍若無人に、 中央の手垢のついた奴らが奪っていく。 ラジオから流れてくるアナウンサーの声に、 あのかつての平和台球場のどよめきが、 野武士のライオンズ選手の一投一打が、 ライオンズが勝つことで衣食住を忘れた幸福な時間が、 そして太平洋クラブ、 クラウンライターズに身売りされてもなおお声援を送り続けてきた 無名のライオンズファンの顔が、声が、オーバラップしてくる。
戦後九州に文化があったとすれば、それは「西鉄ライオンズ」 に他ならない。文化は上から見下すものでもなければ、 下から見上げるものでもない。その土地に生活し、自分の地位、 名誉、富に関係なく、純粋にキラキラと輝く無垢なる存在、 それが我らが西鉄ライオンズであった。
・今思うに、大下弘のバッティングセンスは、 モーツァルトの曲に相通ずるものがあるように思う。繊細にみえる華麗なるフォーム、右足をヒョイと上げるタイミング、 軽いのである。天才は、いとも簡単にやってみせるのか?一所懸命とは程遠いイメージである。「軽い」 という言葉を実感できた最初のことである。大下弘は、勝負師として、 その不可欠の条件を兼ね備えたといえるのではないか。その大下弘もすでにこの世にいない。あの世で野球を忘れ、 酒と女の日々に違いない。
・西鉄ライオンズ、宝劇場、炭鉱、遊廓、どれもこれも、 あの時代だからこそ存在し得たのではないだろうか。他人の体温を十分に感じられる時代だったからこそ……。
要するに、今は「祭り」が死語になってしまったのである。 あの時代のすべてに祭りの精神が充満していた。
平和台球場に向かう時の気持ちの込め方、 花火大会における朝からの場所取りのエネルギー、 お目当ての映画を待ち続ける気持ちの高ぶり、運動会における各町内の盛り上がり。 どれもこれも、ただ単に楽しむというレベルではないのである。ひたすら、のめり込む精神、 一体化しないと気が晴れないのであろう、 同次元まで自己を推し進める
エネルギー、これが祭りの原点ではなかろうか。
・かつての我がライオンズは、劇的なる集団であった。 三原脩という才ある演出家を筆頭に、名優揃いであった。二枚目あり、立役あり、悪役あり、脇役あり、 こんなにも役者が揃っていた劇団、いや球団も過去、現在、 皆無ではなかろうか。
・さらば、博多。末広長屋。さらば、平和台球場……。 我が心のライオンズ。西鉄ライオンズの勇士たちが、平和台球場の大観衆の声援に送られて、何度も何度も、 ボクのホームベースを駆け抜けていく……。ボクの血肉となり、背骨をきっちりと通してくれた博多の街が、顔が、 見るみるうちに遠ざかる、漆黒の彼方に……。
いいなあ…。ライオンズ、ナマで見たかったなあ。なぜ、西鉄ライオンズにこんなにも惹かれるのだろう。ひとつのチームがなくなるってトンデモないことなんだね。野球ファン必読。オススメです。(・∀・)