酒場のギター弾き 小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月」(長谷川晶一)

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虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月

虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月

 

 ワタシの物心ついたとき、プロ野球ではジャイアンツがV9の真っ只中セ・リーグではヤクルトアトムズ」「大洋ホエールズが存在し、パ・リーグでは南海ホークス」「阪急ブレーブス」「近鉄バファローズ」そして「西鉄ライオンズ」が「太平洋クラブライオンズ」に名称を変えたころ「日拓ホームフライヤーズ」が存在していた。

 

当時、パ・リーグで活躍していた張本勲プロ野球カード、いまでも忘れられない。

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「1973年、リーグ消滅の危機も囁かれていたパ・リーグに、新たなる球団が誕生した。経営不振にあえぐ東映フライヤーズを買収した日拓ホームフライヤーズだ。張本勲大杉勝男大下剛史金田留広高橋直樹、新人の新美敏……個性派プレイヤーを擁するチームと、「七色のユニフォーム」など球界に新風を吹き込むべくさまざまなアイディアとともに乗り込んできた西村オーナー。だが、その熱い想いとは裏腹にチームは迷走を続け、やがて……。それは時代の「あだ花」だったのか、はたまた現在へと続く「懸け橋」だったのか?――映画産業の衰退・沸騰する土地ブームなど当時の世相を背景に、わずか10か月で儚く消えた新規参入球団の奮闘をヴィヴィッドに描出するスポーツドキュメント」そのエッセンスを紹介しよう。

 

東映フライヤーズの終焉のときは近づいていた。九州の名門チームだった西鉄ライオンズはついに二ヵ月前に消滅し、すでに太平洋クラブライオンズと名称を変えていた。老舗鉄道会社が球団を手放し、レジャー業界で名を馳せる太平洋クラブネーミングライツを与えていた。一方、かつて球団を所有していた松竹、大映に続いて、プロ野球球団を保有する最後の映画会社となっていた東映も万策尽きていた。この窮地を救うべく、空前の土地ブームの中で新たに日拓ホームが球団経営に名乗りを上げようとしていた。72年が、ようやく暮れる。波乱の予兆をはらみながら、パ・リーグの新しい歴史が始まろうとしていたー。

 

・「……今、西村(昭孝)さんはノンプロチームを運営していますよね。ノンプロの経営にしたって、年間で7000万から8000万はかかるはずです。仮にプロチームの運営が年間に2億円だとして、あと1億2000万円出せば済む問題だ。西村さん、これはメリットがありますよ。プロ球団を持ってみたらどうですか?


・73年5月23日ー。この年の藍綬褒章受賞者が決定し、そこには大社義規の名前もあった。戦前の42年に徳島食品加工場(のちの徳島ハム)を設立。やがて大阪に拠点を移して63年から日本ハムに商号を変更。一代で日本有数の食肉加工のトップリーダーにのし上がった敏腕経営者だった。野球界において、彼の存在がクローズアップされるのは、これから半年後のことである。そして、大社の藍綬褒章受賞が、日拓ホームフライヤーズにとって、さらに、日本プロ野球会にとって、後に大きな意味を持つこととなるー。

 

野球協約上では、総監督に就任すればユニフォームでも、私服でもベンチ入りが可能となり、指揮を執ることは不可能ではない。球団買収当初「金は出すが、口は出さない」と宣言した西村は、ついにこのとき「金も出すが、口も出す」路線に方針を転換したのだった。ついに、西村はしびれをきらしたのだった。さらに人気回復の一環として、そして田宮(謙次郎)の持つ「地味さ」を一掃するために、後期からは「その時のムードによってユニフォームの色を変える」と宣言。地味なイメージを払拭するべく鮮やかなカラーリングの新ユニフォームで臨むことも合わせて発表された。


日本ハム社内で時間をかけて検討されていたのが、プロ野球チームを持つ」ということだったONの活躍を通じて、すでに国民的スポーツに成長したプロ野球チームを持てば、あっという間に知名度が向上するのは明らかだった。しかし日本全国にわずか十二球団しかなく、なかなか新規参入が困難であること、参入障壁が高すぎることもあって、それ以上の進展は見せてはいなかった。


・「七色のユニフォームを支給されたけど、一度も着なかったユニフォームもありましたね。野球は毎日試合に出るけど、投手はまったくボールを握らない上がりの日があるでしょう。ちょうど上がりの日と重なったんで。何色のユニフォームだったっけ……」(新美)


・「……そもそも、七色のユニフォームって必要だと思います?チームは最低でも60人とか70人とかいるわけでしょ。それが一人七着ずつですよ。西村オーナーがふと“野球ってこんなに金が掛かるのか……”って言ったそうです。一着2万円として一人14万円が70人分。それはお金がかかりますよね。(笑)」(高橋直樹


・「やっぱり悔しいという思いだけだよね。七色のユニフォームなど、プロ野球に新しい波を生み出そうとというのは分かるけれど、あと1年頑張ってくれれば……という思いがありますよ。そうすれがば、私も、土橋(正幸)のあんちゃんもまた別の野球人生の大舞台を送れたんじゃないかと思いますね……」(張本勲


・「(日拓ホームフライヤーズの10ヵ月は)祭りだよ。毎日が祭りだったよ、あの頃は。狼たちの集団が自由に野球をしていたんだからね。やっぱりあれは祭りだったんだよ…。お前ら、よう遠いところまで来てくれたの。野球界の昔話を、こうして後輩たちに伝えることはワシらにはなかなかできん。あんたらがおらんな、伝わらんのじゃけ。これ大事なことなんよ。本当にありがとう。ありがとう……」(大下剛史

 

・長いプロ野球の歴史において日拓ホームフライヤーズ」というチームが存在したことは確かであり、東映日本ハムをつなぐ懸け橋となったことは間違いない。このとき、日拓が東映を引き受けたからこそ、現在に続く日本ハムの栄光がある。このとき日拓が東映を引き受けたからこそ、現在に続く日本ハムの繁栄がある。ダルビッシュ有も、大谷翔平日本ハムのユニフォームに身を包んで躍動した。つまりは、日拓ホームフライヤーズの後継球団のOBでもあるのだ。わずか10ヵ月。あのとき西村が「東映買収」の決断をしなければ、はたして現在のプロ野球はどうなっていたのだろうか?


七色のユニフォームを着た男たち。歴史の懸け橋となった男たち。そんな男たちが集った虹色球団が、かつて確かに存在した。73年の混乱の主役であり、それでも長い目で見れば、現在に続く球界繁栄の捨て石になったチーム。虹のように儚く消えていった幻のチーム。それこそ、日拓ホームフライヤーズだったのだー


「72年末、若手経営者たちの密談」「揺らぐ東映フライヤーズー1972年秋」「日拓ホームフライヤーズ誕生ー1973年初春」「新生フライヤーズ、波乱の船出」「強心臓ルーキー・新美敏の奮闘」「兄・正一と弟・留広ー金田兄弟の強い絆」「西村オーナーの方針転換ー田宮監督解任」「日拓・ロッテ合併の動き 1リーグ問題再び火の手」「再びの身売り騒動ーそして、あっけない終焉」など。

 

これはプロ野球ファン必読だよねー。超オススメです!♪

 

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虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月

虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月