ワタシがプロ野球に興味を持ち始めた頃、ライオンズといえば、西武でもなく西鉄でもなく「太平洋クラブライオンズ」だった。その後、クラウンライターライオンズになり法政大学の江川卓を強行指名する事件が起きる!
栄光の西武ライオンズ誕生までの太平洋クラブライオンズ(1973年~1976年)クラウンライターライオンズ(1977年~1977年)奮闘の6年間を関係者の証言とともに振り返る渾身のノンフィクション!そのエッセンスを紹介しよう。
・黒い霧事件によって、西鉄ライオンズはすっかり弱体化した。 1956年から三年連続日本一というかつての名門チームの面影は なく、不十分な戦力でペナントレースに挑み、そして破れ続けた。 黒い霧事件の発覚後に監督に就任した稲尾和久監督は泥水をすすり 続けた。就任した70年以来、三年連続で最下位に甘んじる。 手薄になった投手陣において、 20代になったばかりの東尾修は来る日も来る日もマウンドに上っ た。同じく若手だった河原明、三輪悟も同様であった。 しかし経験不足の若手選手に頼らざるを得ない状態ではチームの上 昇は見込めず、西鉄は負け続け、 本拠地である平和台球場には常に閑古鳥が鳴いていた。さらに、 拭いがたいほどのダーティーイメージが西鉄にこびりついていた。 熱しやすく冷めやすい博多のファンからは完全に見放されていた。
・72年開幕直前のパ・リーグ懇親会の席上で西鉄オーナー・ 木本元敬が切り出した。「西鉄としては、 この辺りで球団経営から撤退したい……」 突然の申し出に言葉を失ったパ・リーグ各球団の出席者たち。 その中には当時のロッテオリオンズのオーナーだった中村長芳の姿 があった。中村が最初に目をつけたのがペプシコーラだった。 日米経済人会議で知り合ったペプシのケンドール会長にアプローチ したところ、思いのほか反応がいい。「ペプシライオンズ」 実現に向けて一気呵成に突き進む。
・中村が注目したのが、急成長中の太平洋クラブだった。『 日本列島改造論』が発売され、 空前の土地ブームでゴルフ場建設で業績を伸ばしていた太平洋クラ ブに目をつけたのだ。ライオンズのスポンサーになることで「 太平洋クラブ」の知名度を上げ、 高額なゴルフ会員権を大量に販売して、 多くの顧客から資金調達をすることにあった。 こうして太平洋クラブがライオンズのスポンサーになることが決ま り、「初年度3億円、以後3年にわたって毎年2億円ずつ支払う」 という内容を取り付けた。このとき坂井保之は「 太平洋サイドと正式な契約書を」と提案したものの、中村は「 男と男の約束に契約書はいらない」と口にし、 正式な契約書が交わされることはなかった。これが後に「 極貧球団」と揶揄されることになる、 最初のボタンの掛け違いだった。
・当時のライオンズフロント首脳陣はいずれも「旧ロッテ」 所属の面々だった。少しでも赤字を補填し、 黒字に転じるためにはどんなことをしてでも話題を作るしかなかっ た。坂井の頭にあったのは「 無から有に転じるには話題作りしかない」という思いだった。 故障を承知の上でハワードを獲得したのもそんな思いからだった。 赤字脱却のための切り札は、「ロッテ・金田正一との遺恨劇」 しかなかった。(うちのような弱いチームは、 騒ぎを起こさなければ世の中から注目されない。 世間から無視されるということは、つまり『死』だ。 マスコミに名前が載る、注目される。 そうしてお客を球場まで呼ぶ。 無から有を生み出すことが大切なんだ……)
・1975年監督に就任した江藤慎一の目指す野球は明確だった。 とにかく「打って、打って、打ちまくる」それが江藤の考える「 打倒・小巨人」のための唯一にして、最大の作戦だった。( オレたちは野武士、職人に集団だ。職人に先生はいらない。 だから、太平洋クラブには打撃コーチはいらない。 みんなが思い思いに個性あふれるバッティングを見せてくれればい い。そうすればオレたちは絶対に勝てる。絶対に優勝できる! お前たちに求めるものは『団結・執念・復讐心』この3つだけだ! )
・球団創設以来、宿舎での食事提供がない代わりに、 一軍選手には「ミールマネー(食事代)」として一日5, 500円が支給されていた。もちろん、選手たちはその額で、 朝昼晩の三色分をやりくりしなければならなかった。
「次々と降りかかる難問、難題の数々」「 野球とは縁のなかった新戦力たち」「 若手選手たちのさまざまなアルバイト」「 クラウンライターライオンズ誕生」「さらば福岡、 さらばライオンズ」「それぞれの、それから」など。
……いや〜尋常じゃないこの資金繰り…(笑)身につまされる…(笑)野球ファンにはぜひ知っていただきたい!オススメです!(・∀・)♪