昨日に続いて福岡のライオンズの物語。これが今から40年前に実際にあった出来事だんなんて胸が締め付けられる。今のプロ野球の、パ・リーグの、西武ライオンズの繁栄はここから始まっているのだ!
「黒い霧事件と江川騒動。それはちょうど過渡期の時代にあったプロ野球を象徴する出来事だった…。西鉄から太平洋、クラウンから西武、プロ野球史上で最も複雑怪奇なキャッチボールの真相がいま初めて明かされる」そのエッセンスを紹介しよう。
・クラウンライター・ライオンズ球団を西武鉄道が買収、 それにともない本拠地も、九州福岡から埼玉県所沢に移転する、 という公式決定が発表されたのは1978(昭和53) 年10月12日。2日前のことだ。 そのときから約50時間が経過している。 うかつにも選手への事情説明を仕残していた。その間、 選手たちは新聞報道にたよるしかない、 という状態がつづいていた。 怒りだすとという当然の成り行きだった。
(竹之内雅史)「だいたいおかしいじゃないですか。 こんな大事なことをですよ、いいですか、 われわれみんな家族があるんですよ、 みんなメシ食ってかなきゃならんのですよ。それを、 おれたちが代表を呼ぶまで、ほったらかしじゃないですか。 そんなバカな話がありますか、すまなかったですみますか!代表、 はっきり言っときます。おれ、西武には行きませんからネ。第一、 おれ、九州の球団と契約したんです。 九州から出ていく気は絶対ありませんから」
(土井正博)「わしは行くで。タケ、お前の言うこともわかるが、 わしは行くで。わしは野球がやりたい。 野球をやるんやったらどこでもいい。 所沢でも平和台でも一緒やんか。だから、わしは行くで。 残りたいもんは残ったらいい。しかし、そしたら野球、 でけんようになると違うか。わしはそう思うで」
・西鉄の後継者探しは、初めの予想を裏切って難航した。 オールスターの時期になってもアテさえない。 1球団が消滅して5球団になってはリーグ存亡の危機にも発展しか ねない。にもかかわらず、 関西3私鉄のオーナー連は後継者探しにはあまり積極的でないよう に見受けられた。これを機にパ・リーグを消滅させ、 あわよくば1リーグ制をもくろんでいるのではないかと観測したり した。
・わが新球団は、いや新球団としてはばたくべき“わたしの球団” は、目下、組織ゼロ、スタッフゼロ、社名も決まっていなければ、 球団譲渡の法的手続きさえとられていない。第一、 私自身にしてからが、その方法を知らないという始末だった。 いくら「なんとかなるさ」を信条とする私でも、 この状態はあまり愉快なものではなかった。
・プロ野球は1年365日活動しているように思われているが、 実際の稼働シーズンは4月から10月までの7ヶ月でしかない。 その間130試合をしているが、 自分で収入をあげることのできる主催試合は65ゲームでしかない 。つまり1年間で、稼げるのはわずか65日だけ。 残りの300日は稼ごうにも稼げない仕組みになっている。 一般社会はこの逆で6日働いて1日休む。 だから生産性が上がって豊かになれる。プロ野球界は、 1日働いて6日休む。休むだけならいいが、 選手には給料は払うし球団活動もしなければならない。 金は出ていく一方だ。
・球団の身売りだけなら、これまでに例は数多くある。 ほとんどの場合が、身売り前よりはあとの方が、 チーム事情は数段良くなっていて、 ファンはそれを受け入れてくれている。だが今度の場合は、 フランチャイズの移転という未曾有のドラマを含んでいる。 それも福岡というかつての“王者・西鉄ライオンズ” を育てた土地からの移動である。 プロ野球に特に想いれの深いこの土地の人々の気質を思えば、 私たちに降り受けられる怒りが身に危険を及ぼすことだって考えら れる。しかしそれよりやりきれないのは、 市民の誰や彼やが私たちに放つであろう侮蔑の視線だ。「 理由はどうあろうと、 福岡からプロ野球をなくすことはないだろうに。 情けない男たちだ」ーそう思われることは、 私にとって死ぬより辛い。たしかに「戦い」には敗れた。 城は落ちた。だが全力を尽くして敗れたのである。 敗れたのちなお、侮蔑の矢を射立てられるのだけは、 なんとしても避けねばならなかった。
「別れの時」「突然の転機」「体当たりの出発」「 開幕への秒読み」「激動の平和台」「新監督の起用」「ああ、 筑前52万石」「江川指名のあとさき」「策略に耐えて」「 移転のシナリオ」「そして最期のときが」など。
この事実はプロ野球ファンは知っておかねばならない。オススメです!