全作品読破(こればっかり!)を目指している向田邦子関連の本。死後何十年も経っているのに、これだけ著作が出るってスゴいよね。いまでも生きているよね。しかもテーマは「恋」だけに「濃い」内容です。(笑)
「向田邦子のドラマに溶かし込まれた、秘められた「恋」とは? 晩年の恋に関する取材から明らかになった新事実・新証言をもとに、向田ワールドを再構築する」そのエッセンスを紹介しよう。
・向田のエッセイの特徴は向田の視点にある。 自分の位置を実際よりも意識的に下げて“美人ではなく、 ドジでおっちょこちょいのところがある売れ残り” という愛すべき三枚目的な女にしていることだ。 そこが読者に安心感を与え、 向田のエッセイがいつまでも愛される秘訣となっている。しかし、 向田の実像は、そのよな要素があったにしても、 自分が書くほど三枚目的ではなかった。 そんな向田がまったくといっていいくらい触れなかったことがある 。それが恋愛体験であった。
・恋愛体験を書くことは難しい。 距離をうまく取らないとただの自慢話になってしまったり、 あるいは逆に露悪的なだけのものになってしまったりするからだ。 向田もそう思っていたのだろうか。 向田の三枚目的な視点では捉えきらないものがあったためだろうか 。そのことに関しては向田の考え方は一貫していた。 死の一年前に“男”についてはっきりいっている。
「猫や焼き物の話なら、そこに小さな見栄が働いても、 さほど問題はないけど、私にとって大きなこと(男のこと)は、 そうはいかない。話題にしたくないもの。 これだけは絶対にいやだという部分がある。その中に“男” というのあるんです」このかたくなさには度が過ぎるものがある。
・「女にとって、写真にうつされるのは、 身をまかせるのに似ている。さかしらなことを言ってはいるが、 所詮、女にとって男は判らない。 それ以上に機械のことは判らないから、 男に写真機を持って構えられると、 それだけで着物を一枚はぎ取られた気持ちになる」
・向田がプロの持つようなカメラを持つということは、 N氏と一緒にいるという気になれたからではないだろうか。 最後の旅となった台湾旅行は、エッセイを書くだけではなく、 高雄で珍しい蝶を撮ることも目的だった。撮影旅行だったのだ。 最後の旅もカメラに関係していた。そして事故に遭う。 不思議な符合である。 これはN氏が向田を呼んだということなのだろうか。
・最後の連続ドラマ『幸福』の打ち上げパーティの時、 藤田弓子は向田から「デブでブスでひとりもん、 それでも可愛くってファザコン。あなたのやった二つの役は実は、 私自身なのね」と打ち明けられている。 こういうところでまた向田はチラッと本当の事を洩らしているのだ 。
・「一組の男女が、 コップいっっぱいの水を分け合って飲むこともセックスだし、 蜘蛛が口から吐き出して自分の巣を作っていく、 あれもセックスなのよね」向田にとって“女が髪を洗って乾かす” とういことは “女”が最も意識するものだったからだろう。深読みすれば、 それは向田とN氏との二人だけしか分からない大事な思い出に結び つくものがあったのかもしれない。
・わたしは結局、男の人はみんな面白いですよ(笑)。 女よかぜんぜん面白い。……わたしはネコも雄ネコ、 お医者さまも男のお医者さんというふうにね(笑)。 恥ずかしいんですけどね、わたし、お店屋さんに行くでしょ、 女の店員から絶対に買わないんですよ。嫌いですよ、わたし、 女の店員から物を買うの。信用してないですね、女を。
・「ゴミ一つあれば、一時間ドラマは書けるわ」と豪語していた。 “日常性”のドラマに対する強い自信があったのだ。
・(柴栄三郎)「あの人は人の何倍も目と耳のいい人ですね。 耳ざとく、目ざとい。聡明って言葉がありますね。聡は耳ざとい、 明は目ざとい、本当に聡明そのものですね。自分が見たもの、 聴いたものをその場でパッとね。 そのことの意味付けが鋭いっていうか、早いですね」
・私は話しているうちに、 柴が向田との個人的な話になると目頭が熱くなっていくのに気が付 いた。これは柴に怒られてしまう喩えになるだろうが、 恋している少年の初々しさを感じてならなかった。
ワタシも亡くなったあとに「恋」についての本が出たら、スキャンダルだらけだからヤメてほしいなあ!(笑)恋したくなりました。オススメです。(・∀・)