2020年も押し迫っているよね。この年末の独特の空気感がいいよね。自分の気持ちがフラットになるというか、原点に還るというか。なんか来年は良い年になりそうな気がする。(・∀・)
さて、またまた良い本に出会いました。映画「おくりびと」の原作ともいえるこの本の続編。生と死について考えさせられる。
「アカデミー賞受賞映画「おくりびと」の原案者が、映画では描かれなかった「生」と「死」の本当の意味は・・・。このたび、その後の「納棺夫日記」が一冊の本になりました。生と死を見つめ、命を繋いでいくことの大切さも実感できるお話」そのエッセンスを紹介しよう。(・∀・)
・シナリオは、火葬場のおじさんの「死は新しい出発の門だ」 という言葉で終わっていた。 出発した後はどうなるのかが完全にカットされていた。 それで安心を得られるだろうか。私の描きたかったのは「いのちのバトンタッチ」であった。 生と死が交差する生死一如の現場にしかないということである。 だから硬直した死体を見ても、 いのちのバトンタッチにはならないのである。声を出して「 ありがとう」と言えなくても、 にっこり微笑んで死んで往く父親の最期にしてほしいと思った。
・人はどんな死に方をしても、死の瞬間は柔和な顔をしている。 安らかな美しい顔をしている。それから硬直が始まるのである。 大事なのは、 息を引き取る瞬間から硬直するまでの間に立ち会うことなのである 。臨終の現場で、五感で死を受け止めることなのである。
・アンデルセン『マッチ売りの少女』 の最終行の文を案外記憶している人は少ない。
こごえ死んだのです。あたらしい年の朝が、 小さいなきがらの上にのぼってきました。 そのなきがらはマッチをもったまま、うずくまっていました。 そのうちのひとたばは、
ほとんど燃えきっていました。この子は、あたたまろうとしたんだね、と人々はいいました。 だれも、この少女が、どのような美しいものを見たか、また、 どのように光につつまれて、おばあさんといっしょに、 新しい年のよろこびをお祝いしにいったか、 それを知っている人はいませんでした。
私は、この文章は死の実相を知り、 永遠というものを知っている人でなければ絶対に書けないと思って いる。こうした現場に出遭うと、 児童相談所は何をしていたのかということしか浮かばない現代人に は、無縁の世界と言っていい。アンデルセンは「 少女は口もとにほほえみを浮かべて死んでいました」 と書いている。
・人も動物も泣きながら生まれ、 笑って死んで往くのが自然の摂理ではないだろうか。
・ソクラテスが「もしかすると、 死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです」 と言っているが、 もしかしなくても人間にとって死は大切なものなのかもしれない。 なぜなら個体の死があるから類の生の存続があるからだ。 一億六千万年も生きてきた恐竜が滅びて哺乳類の先祖が生き残った のは、生と死の回転を速めたからだという学者もいる。要するに、 生と死の回転を速めることによって急変した環境に対応できたとい うことである。 旧来の個体の死によって環境変化に対応した新しい個体が生まれ、 類としての生の存在が可能になったということである。 今日のように個の生に執着する思想で構築された社会は、 やがて人類の生の存続を脅かさす結果になるかもしれない。
「十四才の二人の少年」は、特に響いた。今年は大切な親戚や友人が数名亡くなった。ご冥福をお祈りするとともに、限りある命を活かしきりたいと思う。オススメです。(・∀・)