「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」(奥野克巳)

 

長いタイトル。不思議なタイトル。でもこの本をひとことで言うと、こういうフレーズになるのだろう。いや〜!びっくりした。刺激的な内容だったー!人に話したくなるな〜〜!!!(・∀・)

 
ボルネオ島の森で、狩猟採集中心の暮らしを営む人々、プナン。彼らは借りたものを壊しても謝らず、礼も言わない。感謝や反省の概念がないのだ。所有感覚も希薄で、食料は皆で分け合い、子どもも実子養子の区別なく育てられる。長年フィールドワークを続ける著者は、資本主義にとらわれないプナンとの生活の中で、人間の生の可能性を思考していくーー。常識をひっくり返す、刺激に満ちた一冊」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
私たちがそうしなければならない、そうなっていると思いこんでいる習慣や一般常識こそが、実は、問題そのものを複雑化させているのではないか通年から身を翻したり、夜を統べる法に対して無関係な位置に至ることはできないだろうか思い込みのような前提がないか極小化されている場所から私自身の思考と行動の自明性を、照らし出してみることはできないだろうか。
 
・そうした理想に近い社会は、狩猟採集主生業とする社会にあるそのひとつが熱帯のボルネオ島のプナンである。人口約1万人。人類は元来こうであったのではないかと思わせてくれる行動やアイデアにあふれている。見た目はそれほど変わらないが、現代社会とは「別の生の可能性」を私たちに示してくれるように思われる。
 
・朝、プナンが蚊帳の中で寝ぼけまなこでまず考えるのは、その日の最初の食事で何を食べるかということである。投網でもして魚を獲りに行くとしよう。まずは腹ごしらえをして、森の中に出かけるのはそれからだ。
 
私たちは生きていくための、食べるためのお金を稼いでいる。それに対し、プナンは、生きるために、生き抜くために食べようとする。彼らは、森の中に食べ物を探すことに一日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしているプナンは「生きるために食べる」人々といえよう。
 
「内蔵」のみを用いて食行動を行う狩猟採集民に対して農耕民や牧畜民は身体の外側に食べ物をいわば「外蔵」することによって、備蓄するようになる。さらに花柄をためるようになった。人類は、高次で巨大な「外蔵」システムのようなものをつくり上げてきた。
 
現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。
 
・獲物がない時は何日も食べられないこともあるが、獲物が獲れたときは、食べたい肉だけを頬張る。食べては寝、寝ては食べる。一日に四度も五度も食べ続ける。
 
・プナンは日々を生きているだけで、反省のようなことをしない失敗や不首尾、過失について、個人に責任を求めたり「個人的に」反省を強いるようなことをしない。個人の責任というよりも、場所や時間、道具、人材などのついての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多い。なんとも不思議なのである。そのおかげであろうか、自死や精神的なストレスというものがない。少なくとも、顕在化はしていない。しかし、反省しないとは、はたしていったいどういうことなのだろうか
 
プナンが「〜しなければならない/しなければならなかった」という言い方をすることは、実際にはほとんどない。プナンは後悔はたまにするが、反省はたぶんしないなぜ反省しないのか。いや、私たち現代人こそ、なぜそんな反省するのか、反省をするようになったのか。
 
狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的なよりよき未来のために生きる」という理念ではなく「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。
 
・プナンはケチはダメ、寛大であることは重要な美徳である。プナンは、つねに、もらったものを惜しげもなく誰かに分け与えることが期待されている。中沢新一によれば、インディアンにとっては、贈り物を自分のものしてはならず、贈り物は動いていかなければならなかった。贈り物と一緒に「贈与の霊」が、他の人に手渡される
 
・食べることと生きることに深く関連するように思われる。狩猟に出かけて獲物が獲れなくても、隣の家族で獲物が獲れた場合には、それらに行って食べさせてもらう。逆の場合もある。つまり、ものがある時に惜しみなく分け与えることで、ものがない時に分け与えることを保証する仕組みが築かれてきたである。
 
ものをもらった時、何かをしてもらった時に、「ありがとう」という表現は、プナン語にはない。「よい心」という表現がある。感謝されるのではなく、分け与える精神こそが褒められるのである。その意味で、ビッグ・マンは「よい心がけ」という言い回しによって表される文化規範の体現者でもある。何も持たない者こそが、そこでは最強である。
 
プナンに生年月日を尋ねると、老若男女、答えられる人は誰一人としていない生年月日によって生まれを言い表すことは、人類の普遍的な表現の様式ではないのだ。プナン社会にカレンダーの類はない。プナンは、食糧や財が豊かに周りにある時に貪欲に消費し、それがなくなれば、別の場所に移って探す。特定の場所で備えたりすることはなく、ただ移動するだけである。そうした環境で暮らす人々にとっては暦や時間は必ずしも必要ではなかったのだろう。
 
未来について、プナンはほとんど騙ることなない。「将来、何になりたいの?」と将来の夢を語ることは、まったく意味をなさない。誕生日、結婚記念日、命日、創立記念日という時間の区切り方は、プナンにとっては、今日でもほとんど意味を持たない。
 
 
「朝の屁祭り」「下痢とおかゆは同じ言葉」「ふたつの勃起考」「慾を捨てよ、とプナンは言った(プナンの所有概念、個人の所有欲は徹底的に殺がれる)」「死者を悼むいくつかのやり方」「子育てはみなで」「教育とは何か。学校とはそもそも何なのか?」など。
 
 
いや〜!すごいわー!まさに目からウロコだ〜!今年のベスト10入りは決定だね。常識を疑うよね〜!超オススメです!!!(・∀・)