昭和40年代、週刊少年キングに、荘司としおの「サイクル野郎」という漫画があった。これで自転車旅行に興味を持った。よーし!大きくなったら自転車で日本一周するぞー!とまるで宝地図を持ったようにワクワク、ウキウキしたっけ。(・∀・)
さて、この本。そんな幼い頃の夢を思い出しちゃいましたー!!!
「殖民軌道は、かつて北海道にだけ存在した特殊な軽便鉄道。国鉄の駅などがあった中心集落と周辺の入植地の間に役所が敷設したごく簡単な軌道で、おもに農産物の輸送に使用された。動力となる馬は入植者が用意し、自ら運行も行なっていまた。最盛期には総延長700キロにも及んだ殖民軌道も、道路の整備によって急激に衰退、昭和47年には完全に姿を消した。このように、簡易な軌道であったため、当時を窺い知ることができる産業遺産や記録はほとんど現存しない、まさに「幻の鉄道」なのです。著者は、わずかな手がかりを元に愛車の自転車のペダルをひたすら漕ぎ、軌道や停車場などがあったと思われる道なき道をたどる」そのエッセンスを紹介しよう。
・殖民軌道というのは、大正十三年以降、 昭和十年代あたりにかけて、北海道の開拓のために主として道東・ 道北の各地に敷設された簡易な軌道である。 まだ内務省直轄官庁だった旧制度下の北海道丁(明治19年〜 昭和22年)が町と開拓地との間に線路を敷き、 貨物や人間を運ぶための台車も用意する。 そして入植者たちがこれを利用するにあたっては、 機関車たる馬力は自分たちで調達し、 みずからこれを運転するわけである。 軌道の合計延長は最盛期には数百キロにも及んだが、 これらのほとんどは昭和30年代には廃止された。 一部の軌道は動力を馬力からガソリン機関車、 さらには自走客車と呼ばれた小型気動車などの替え、 また運営形態も当初の個人勝手運行、 あるいは運行組合による運行から村営あるいは町営になり、 名称も「簡易軌道」となって昭和40年代まで永らえたが、 昭和47年の浜中町営軌道おn廃止ですべてに終止符が打たれた。
・いちばん気になる熊への対応については「 とにかく向こうを驚かせない」「向こうが先に人間を発見したら、 向こうが逃げてゆく」という点に集約されるようであった、 どうやら、 いきなり目と目があうというのが一番具合が悪いらしい。 さもありなんと思う。
・北海道の駅逓というのは律令時代に設置された「駅」 と類似の施設である。明治末期、 北海道の辺地にはまだ鉄道もまともな道もなかった時代、 原野を行き来する人馬の便に供するため、 何里かおきに宿泊可能な建物を建て、その管理人を置いて、 馬の継ぎたて、郵便物の取次ぎ、 生活用物資の販売など種々のサービスを提供した施設である。 駅と郵便局と旅館とコンビニをいっしょくたにしたような機能を担 っていた。駅逓寮(のちの逓信省) 所管のこの施設の管理人やその末裔が、 北海道ではやがて土地の名士になってゆくのである。 トタン板には虹別駅逓は大正三年設置、昭和11年廃止とあった。 旧版地図によれば、ここが殖民軌道の停留場でもあったようだが、 納得がいった。
・96歳の開拓三代目世代のおじいさんからは、 軌道開通時の西春別の賑わいや、起動停留場の位置の変遷のこと、 国鉄開通のあと町の主な機能がどんどん旧市街から駅前に移り、 旧市街が活気を失っていった話などを拝聴した。
・平成6年から11年まで倉敷市水島の工場に単身赴任し、 自転車通勤を始め、自転車の機動力を再認識し、 自転車を担いで旅行をするようになりました。 旅行中のできごとについて日記スタイルの記録をするようになった のは平成13年の根室旅行のときからです。「計画」と「実行」 とで「一粒で二度おいしい」だったのですが、 日記を書き始めてからは「三度おいしい」になりました。 あれから8年、 つまり四度ものおいしさを味わえることに気づきました。
・弟子屈で泊まったホテル慶楽荘や養老牛温泉の花山荘は、 もう旅館は閉鎖されていることも知り、 北海道の厳しさをあらためて知らされることにもなりました。 今日や昨日の経済混乱にかかわらない、 北海道であるがゆえの特別な厳しさをつくづく思います。 実際に北海道の山間や海辺の、 あるいは平原のなかの集落を回っていると、明治以来の、 その時々の生産力強化政策のもとに、 多くのお金と多くのひとびとの労苦・ 犠牲を注ぎ込んできり拓いてきた北の大地が、 いまはもう見切りをつけられて、 ひょっとすると蝦夷地だった昔に戻ってゆくのか、 との恐怖感にとらわれそうになったりすらします。
いいなあ。ロマンがあるなー!今ならギターを背負って全国周りたいわー!オススメです。(・∀・)