酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「菓子屋横丁月光荘 丸窓」(ほしおさなえ)

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全作品読破している大好きなほしおさなえさんの最新作。さっそく読みましたよー!!!読み終えるのが惜しいようにかみしめて読みました。ハートにズドーン!と響くなあ!(・∀・)
 
「大学時代のゼミの仲間たちと、隣町の農園を訪ねた大学院生・遠野守人は、その晩、友人・田辺の母の実家に泊まって、自分と同じく家の声が聞こえる田辺の祖母・喜代との再会を果たす。古民家〈月光荘〉の管理人となり、早一年。古い町並みの温もりに包まれ、人と繋がる楽しさを知った守人は、このまま川越の地で働きたいと考えるようになっていた。その矢先、守人はすべての縁に導かれるように、自分の曽祖父が家の修繕を得意とする大工だったと知り……。感涙必至のシリーズ第四作」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
茂ったつるの隙間からちょうどよく育ったさやえんどうを探すのはなかなか楽しい作業だった。ハサミで根元を切ると、わずかに青い匂いがする。そのたびに生きものの身体にハサミを入れているのだと実感する。さやえんどうの本体には生きているけれど、こうして若いうちに豆を採ってしまうのだから、一種の殺生だろう。といって、僕たちはこうやってほかの生きものを食べないと生きていけないのだから、否定することはできない。僕たちが食べているものは水と塩以外はたいてい生きものであると聞いた。
 
動物でも植物でも菌類でも、生きているものを食べることで生きている。スーパーでパックされた肉や野菜を買っていると、それが生きものであることを忘れてしまう。日々なにかを殺すことで生きているということを忘れてしまう。食べるというのはほんとうはとても野性的なことなに、そのことを意識せずに生きている。生きていることがふわふわと軽く、自分の身体のことを考えなくなる。それは少しおかしなことなのかもしれない。ときにはこうやって、さやえんどうの根元をパチンと切り落とすようなことをしないと、人は命というものを忘れてしまう
 
植物を切る青い匂い。植物は不思議だ。動物とちがって、なにかを食べるということがない。土と水と陽の光で生きている。僕らは植物を食べ、飾る。そういえば、華道なども生と死に向き合う行為だろう。ある一定の時間、植物の命と向かい合う。豆を摘んでいると、とりとめもなくそんな思いが頭のなかをよぎっていった。
 
人間ってちょっと前まではこうやって虫がたくさんいるなかで生きてきたわけじゃないですか町なかで暮らしてるとほとんど虫を観ないからちょっとでもいるとパニックになるんですけど、それも不自然なことかもしれないな、って。
 
植物すごいな、って。変じゃないですか?なんにも食べないのに、どんどん大きくなって、花つけたり、実ったりして……どっか一部を切ってもまた伸びてくるし、脳もないし、動物とは全然ちがう。でも、生きてる。身体全体が生きることに向かってて、ちょっと怖いような……。
 
・俺たちだって身体じゅう生きてるんだけどな。髪も爪も伸びるし、皮膚だって入れ替わる。食べたり飲んだりしなければ死ぬ。でも言いたいことはわかる。俺たちが『生きてる』ことを忘れすぎてるかもしれないな。
 
・でも、喜代さんは言ってた。人は死んだら家になるんじゃないか、って。家の世界があって、そこにイケるんじゃないか、って。
 
神や霊や妖怪、むかしの人はそれらを信じ、おそれていた。この百年で世界は変わったけれど、それ以前の長いあいだずっと人々が信じていたものを、まぼろしだった、存在しないものだった、となぜ断言できるか。
 
・しかし、蚕の糸と言葉といいうのはどこか自然な結びつきに思える。言葉は言の葉。つまり葉っぱである。蚕は桑の葉を食べる。言の葉を食べて、それを体内で糸にして自らの口から吐く。語るというのはそういう行為かもしれない。
 
口減らし。むかしは生きていくのはたいへんなことで、弱い者は死ぬしかなかった。災害や飢饉ともなれば多くの人が死んだ。村が滅びることもあった。電気ガス水道の整ったいまのような町が実現されてから、まだ百年も経っていない。僕たちの住む町が蜃気楼のように思える。草原に腰をおろし、なぜか涙が出た。ここに来た人たちはどんな夜を過ごしたのだろう。死とはなんなのだろう。
 
・ろうそくの火の力かもしれないですね。あの火を見ていると、心をほどきたくなるのかもしれない。
 
文字ってうつくしいな、と思った。声とはちがう、物質になった言葉文字とは、思いが紙に焼きつけられたもののように思える。
 
声には文字とちがうふくらみがある匂いや空間まで再現されるような。目で本を読むときには、言葉が頭のなかにはいってくるような感じだが、朗読を聴くときは、自分の身体がその世界にはいってしまったみたいになる。むかしだれかが書いた文章には、その人の思いが封じこめられている。著者が死んで長いときを経て、著者はどこにもいないのに、思いだけが文字の形になって紙に刻まれている。文章というのはそういうものだと思っていた。だが、こうして人が声に出して読んでいるのを聴くと、文字で読んでいたときとはちがう、だれかの気配や息遣いを感じる。著者自身がこの場に戻ってきた、というのともちがうが、幽霊と出会ったような、幽霊とともにひとときを過ごしたような感触があった。
 
・いい建物だ。さきの朗読のあいだ、家がふるえてるような気がしましたよ。家も朗読に聴き入っているような……。
 
・俺は遠野くんには文才があると思うよ。遠野くんの文章は外に開かれてる。ちゃんと外のものから刺激を受けて、だれかに届けたくて書いてる、ってこと。言葉を呼吸してる、っていうかね。せっかくだから、書き続けた方がいいと思うよ。
 
むかしの人が木と紙で家を作り、そこに住んでいたことを思うと、胸がしめつけられるような気持ちになる。そうやって命をつないできてくれたんだなあ、って
 
旅はひとりがいい。ひとりであたらしい場所に行くと、感覚が研ぎ澄まされる。
 
・鎌倉は、山と海に囲まれている。山のしんしんとしたさびしさに包まれながら、もう片方からは広大な海が迫ってくる。荒れた日はもちろんおそろしいが、晴れた日の凪いだ海の広さもおそろしい。うつくしい土地だが、そのうつくしさはさびしさとおそろしさの両方をはらんでいるここに暮らすことはさびしく、豊かなことなのだろうと思った。
 
硝子戸の中(うち)夏目漱石』「朗読グループ「ちょうちょう」」「赤いろうそくと人魚 小川未明」「紙むすびと高御産巣日(たかみむすび)」「鎌倉文学館など。
 
本当に胸がしめつけられる。なぜか、新潟のふるさととご先祖様を思い出した。ほしおさん、いいなあ。もう次の作品が待ち遠しいなあ。このシリーズ、次はどんな展開になるんだろう。超オススメです。(・∀・)

 

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