さてこの本。その名もズバリ、「スバル」!「小澤征爾がヨーロッパ横断したラビットスクーター、日本最古の人気国民車「スバル360」、スバリストが愛するレガシィと四輪駆動と水平対向エンジン、国内でも大人気のレヴォーグ、アメリカで高評価のアウトバック、最新安全技術のアイサイト……原点はすべて「中島飛行機」にあった。そのエッセンスを紹介しよう。
・中島飛行機は、往時、 東洋一の航空機メーカーだった民間会社だ。戦闘機の隼、鍾馗( しょうき)、疾風(はやて)は同社が開発したエンジン、 機体であり、 三菱航空機が作ったゼロ戦も量産した機体数は中島飛行機の方が多 い。最盛時は、147工場、 26万人の従業員を擁した巨大企業である。 戦後になって解体され再結集してからも航空機開発を続けてはいる 。しかし、事業の柱は自動車の製造だ。 現在の名称はSUBARU。スバルとはプレアデス星団のことで、 日本では漢字で昴と表現した。
・勝ち目のない戦争になぜ日本は突入したのか。 戦争を企画した人間、戦争の準備にかかわった人間でさえも、 本音は「アメリカとの戦争は勝てない。しかし、 最初だけ花火を打ち上げよう。一線だけでも大勝利すれば、 アメリカは必ず矛を収めてくれる」と思っていたようだ。 1938年の工業力指数は、アメリカ 528、日本 88。原油生産量の日米比は1対700。これでは戦にならない。
・ 中島飛行機の飛行機の創業者は海軍で軍用機の設計をしていた中島 知久平。1917年、 33歳のとき生家のあった群馬県新田郡尾島町の蚕糸(さんし) 小屋に寺務所を設け、「飛行機研究所」 という素朴な名称の看板を掲げた。彼に従った部下は6人。 孫正義が率いるソフトバンクよりもはるかに短期期間に、 疾走するように成長したのが中島飛行機だった。
・昭和天皇自身は敗戦の理由をよくわかっていた。 ひとつはアメリカに勝つとはどういう状態かを誰も明確にしなかっ たこと。 もうひとつは始めてしまった戦争を途中で止められなかったこと。 戦争状態になってからは「軍配を上げよう」と主張した首脳、 軍幹部がいなかったため、結局、 最後に戦争を止めたのは昭和天皇だった。 勝負をするのなら目標がなればいけない。そして、 的確な時に勝負を挑まなくてはならない。何も、 このふたつは国という大きな組織だけの課題ではない。 個々の企業だって、勝負をかける時がある。 勝負に向かう前にははっきりとした目標を決めておく必要がある。 では、敗戦で飛行機を作れなくなった中島飛行機、 スバルの戦後の目的とは何だったのか。 彼らは果たして勝負をかけたのだろうか。 創業から102年の歴史の中に、その答えはある。
・「色がきれいだから服が売れるわけではない。 生地がいいから売れることはない。安いからといって売れないし、 ブランドだから大丈夫ということはない。 売れる商品とはフレッシュなもの、フレッシュな印象を持つもの、 フレッシュな人が売っているもの、それだけです」
・「 入社した技術者のほとんどは車よりも飛行機を作りたくて入った人 間です。そこが他の自動車会社とは違います。それに、 飛行機って、落ちたら搭乗者の命が失われます。 落ちない飛行機を作るのが我々というか中島飛行機の技術者の使命 でした。 それと同じ意識で僕らは自動車の安全を考えてきたのです」
・百瀬語録。「すべてを数値化して考えよ」「 みんなで考えるんだ。部長も課長もない、担当者まで考えるんだ。 考えるときはみんな平等だ」「 ものを考えるときは強度計算を先にするものじゃない。 先に絵を描け。感じのいい絵は良い品物になる」
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クルマを手放しててしばらく経つけど、次に買うのは、スバルだな。オススメです。(・∀・)