「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「夢あたたかき 向田邦子との二十年」(久世光彦)

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全作品と全関連作品読破を狙っている向田邦子さん。この本は盟友ともいうべき久世光彦さんの本。
 
忘れえぬ女性、向田邦子。「もしかしたら私は、あの人の不幸について書いてきたのかもしれない」あの『触れもせで』の感動をいま一度」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・本当に「お披露目」されるみたいなことは嫌いな人だった。その代わり、他人のお披露目は大好きで、頼まれれば締切の原稿そっちのけで、人の嫌がる幹事の、そのまた裏方みたいな役を率先引き受けて、あちこち駆け廻るような人だった
 
・向田さんとは、いっしょに戦った覚えもなければ、趣味で一致していたわけでもない。幼なじみというのはお互い知り合ったのが遅すぎたし、畏友というほど尊敬もしていなかった。ましてや、色恋めいた気持ちなど、お互い毛の先ほどもなかった。いなくなって、ようやく安心して甘えている自分に気がつくのである。
 
・向田さんが、よく台本の「家」という字に、わざわざ「ウチ」と振り仮名を振っていたと思い出す。このごろの若い子は「家」なら何でも「イエ」と読んで平気だから困るというのである。私たちは、ごく自然に「ウチ」と言う。「イエ」では、何だかからっぽの建物に帰るようで淋しいのである。「ウチ」には人がいる。人がいて待っていてくれる。
 
向田さんは、叱ることより、叱られることの方が好きだった。あの人が寺内貫太郎一家を書こうと思い立ったのは叱られ通しに叱られていたお父さんがいなくなったからだった。横暴だ、理不尽だと、いつも唇を尖らせてばかりいたくせに、四十年の間に叱られたことを、全部書きたくなったのである。だから、怒鳴る貫太郎にも、怒鳴られる家族たちにも、火傷するくらいの熱さがあった泣きたくなるような力がこもっていた。寺内貫太郎一家は、叱る父親への、叱られてばかりいた娘の、大声の謝辞だった。
 
・私は向田さんにとって、特別な人でもなんでもなかったが、あの人は私にとって少し特別の人だった。ということは、私も、私に「ありがとう」と言ってくれた人たちとおなじように、向田邦子ファンの一人なのかもしれない。
 
・あの日、不思議なパーティーのあと、どうせ誰かに飲みに連れ回されて、ようやく一人になった夜更け、向田さんは誰もいない青山の部屋に戻って何を考え、何をしたのだろう。幸せのあとというものは、寂しいものだ。みんなに優しい言葉をかけられたり、励まされたりしただけに、かえって不安で心細くなるものだ。笛や太鼓のお祭りは、こんどいつやってくるかわからない。あんなに大勢人がいたのに、ふと見回すと、誰もいない……。
 
・(加藤治子『貫太郎』の頃というのは、まだ家族が家族でいることの幸せみたいなものを、みんなが感じることができた時代だったと思うの。
久世光彦)でも、そういう時代が終わってしまうということを、演じている人も作っている人も予感していたと思いますよ。だからいいドラマを作ることができた。
小林亜星)たとえば、ドラマに登場するおかずひとつにしても、おろそかにせず、大事にしてたでしょう。たとえば『貫太郎』なんかではテロップでその日の献立てを流したりして……。昔の人というのは、酒の飲み方、料理の出し方ひとつにもある規範があった。そういうものが、あの頃すでに消え始めようとしていたんだなあ。

 

いいなあ……昭和って。懐かしいねえ。オススメです。(・∀・)

 

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