「「それでも僕は語りたい。向田邦子の何処が特別なのか」(太田光)爆笑問題・太田さんの向田邦子に対する尊敬が詰まっているのが本書です。「こんなことを向田さん以外の誰が書けるだろう」と太田さんに言わしめる向田邦子の傑出した魅力を、その小説、エッセイ、シナリオにおける奇跡のような表現を採り上げて綴ります。太田さんの選ぶ「読む向田邦子」「観る向田邦子」ベストテンも掲載。向田ファンであることの幸福を存分に味わえる、最高の入門書にして最強の向田論」そのエッセンスを紹介しよう。
・向田さんの作品は、不道徳である。と思う。 この短編集の作品はどれも“一番書いてはいけないこと” だと感じる。では、他の人々は、 書いてはいけないことだからこういう作品を書かないのかというと そうではない。誰もが知っているはずなのに、 誰も言葉にできないから、“書けない”のだ。にもかかわらず、 向田さんの作品は有害とされるどころか、 逆に誰からも尊敬され続け、美しく、品があり、礼をわきまえた、 正しい姿、といったイメージすらある。これが、向田邦子の“ 恐ろしさ”だと思う。
・書類にサインを貰いにくると帰り際「ダダダダ」 と呟いて席に戻って行く。何て上手いのだろうと思う。この「 ダダダダ」だけで、この女性の若さ、悪戯っぽさ、恐ろしさ、 そして、会社での二人の関係、半沢のビクビクしている態度、 そして何よりこの女性の魅力をどんな説明ゼリフより雄弁に表現し てしまうのだ。本当に痺れる。
・向田さんの本を読んだ後はいつもそうだが、 言葉を発するのが怖い。自分の言葉が全て雑音のようで、 ただただ黙っていたい。それが本音だ。
・幸福にすること、と、されること、どちらが幸福だろう、と。 笑わせることと、笑うこと。こちらかを選べと言われたら、 芸人である私は、笑わせること、を選ぶのだろう。 私は無垢な人ほど、笑う側になるのではないかと思っている、 もしその相手が赤ん坊なら、芸人でなくても、誰もが、 自分が笑わせる側になるだろう。 そしてそのことに何の疑問も感じないだろう。 そして誰もがそちら側に立つことで、幸福を感じるだろう。 この物語は、たみの無垢を、 二人の男が保ち続けようとする物語である。そして門倉にとって、 たみの無垢を保つたった一つの方法が、思いを言葉にしないこと、 である。表現する人の、幸福の条件が、沈黙であること。 それがこの物語の核心であり、作家・ 向田邦子の核心であると私は思う。
・“愛”以外にも、 向田さんのあまり使わない言葉はたくさんある。たとえば “美”や“感動”という言葉。“悲しい” “悪い” “寂しい”など、 感情を形容する便利な言葉を向田さんは使わない。 それは実は舞台や映画やテレビの脚本のト書きの原則である。
・向田さんは“愛”について、 絨毯の上に寝そべって考えているうちに小一時間ほどうたた寝をし たという。この静かな時間の流れ。“絨毯の上でのうたた寝” こそが、向田さんを包む幸福であり、“愛” という言葉に収まりきれない“何か”であると、 向田さんをさりげなく言っているのだと思う。
・少女時代、向田さんは肺病になり、「 少し美人になったような気がした」という。人は、 こういうことにどれほど救われるだろう。
・向田さんの“自分以外の何か”に対する愛情の話は、 読んでも読んでも、もっと聞きたくなる。それはきっと、 この世界にある“自分以外の何か”に愛情を注ぐ、ということこそが、人が生きることの根拠なんだと、 気付かされるからだ。
・向田さんは、必ず、重要な部分で“沈黙”する。 大げさなようだが、これが、向田邦子の“生き方”なのだと思う。 この“生き方”が、全ての向田作品に反映している。 一番言いたいことを言わないこと。それは自分を殺すことである。 向田さんのその覚悟は、恐ろしいほどである。自己表現とは、 自分を表すことではなくて、自分を消すことだ。 表現における自由とは、不自由を受け入れることだ。 本当の自由とは、自由と決別する覚悟をすることだ。 その覚悟が相手を守り、自分を守るのだ。
・『眠る盃』の中には、 本当に全ての制約から解き放たれたように、 相手を傷つける心配も何もなく、浮かんだ言葉を全て、思い切り、 使うことを自分に許しているかのような文章がある。 大好きな水羊羹のことを、 どうかと思うほど大げさに褒めちぎった名文「水羊羹」と、 愛猫マミオへの思いを綴った「マハシャイ・マミオ殿」である。 短いので、そこままここの載せてみる。
「偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・新しもの好き・ 体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・ 自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・ オッチョコチョイ……」きりがないからやめますが、 貴男はまことの男の中の男であります。 私はそこに惚れているのです」
これを書いている時の向田さんは、どんなに楽しかっただろう。
・「楠」では、自分の書く物には木が出てこないと言う。ある時、 同窓会で級友が恩師に、 孫が生まれる記念に植樹を頼んでいるのを見る。 級友は子供が生まれるたびに恩師に植樹をしてもらっていて、 今では、 昔植えてもらった木が見上げるような大木になっていると聞いた時 、向田さんは「涙がこぼれそうになった」と言う。 自分は木を書かなかったのではなく、書けなかったのだ、と、 その時思い当たったと。父は転勤が多く、 社宅ぐらしの多かった自分は自分の庭を知らず、 長く愛着を持つ木を知らなかったのだと。 こういう感受性を見ると、胸が詰まるような気持ちになる。
・今、テレビの世界の中にいる僕は改めて思う。 向田邦子が不在であることの大きさを。 向田邦子がつなげたであろうその後のテレビドラマの歴史を知るこ とが出来ないことの無念さを。あの飛行機事故さえなかったら、 現在のテレビ界、 文學界がどれほどの水準に達していたかは想像を絶する。 僕は確信する。 向田邦子のテレビドラマ以上の脚本を書ける作家は過去に一人もい ないし、今後もおそらく現れないだろうということを。 何がどうしてどうなのか。それでも僕は語りたい。 向田邦子の何処が特別なのか。何処が他と違うのか。
・(向田和子)「姉と普通にしゃべっていて、私が「絶対」 という言葉を使ったとたんに「あなた、「絶対」 というのは使わないで」と怒るんです。「絶対」というのはない、 と姉は言うんですよ」
・日本は、向田邦子のように生きてきた。昔の日本だけじゃない。 今の日本を見ても私はそう思う。 だから私は向田邦子が好きなのだ。 この人を忘れられるわけがない。 そして向田邦子が素晴らしいのは、この国と似ていて、 太陽とも似ているからだ。これほど誇らしいことがあるだろうか。 だから私は、向田邦子を読むと自信を持てて楽しくなって。 何だかんだ言いながら生きていることを続けていこうと思えるのだ 。
太田の文章力がスゴイわ。それこそ“自分以外の何か”に愛情を注ぐ、だね。この本も再読したい。超オススメです。(・∀・)