「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「東京の下町」(吉村昭 繪・永田力)

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展示会で新潟に行ってました。新潟市十日町市松之山とは天と地との差があるが、やっぱり新潟の空気は良い。( ・∀・)イイ!! ご先祖様が代々ここで生活してきたのか、と思うと感慨深いものがあるのだ。親はどんな暮らしをしていたのだろう、どんな青春を送ってきたのだろう、と思いを馳せる。
 
さてこの本。いいよお!戦前の東京の暮らしを回想した珠玉エッセイが復刊。東京・日暮里で生まれ育った作家・吉村昭が、食べ物、風物、戦災など思い出を鮮やかに綴った。「私が日暮里で生れ育ったことを知っている編集者から、少年時代の生活を書くように、と何度もすすめられた。が、私は、まだそんな年齢ではなく、それに下町の要素が濃いとは言え、御郭外の日暮里を下町として書くのも気がひけて、そのたびに断ってきた。しかし、私も五十代の半ばをすぎ、戦前なら故老の末席に入ろうともいう年齢になったことを考え、思い切って筆をとることにしたのである」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
魯迅「藤野先生」の英訳文の中の、東京を出てから間もなく、ある駅について。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなお、その名を覚えている」という部分の英訳文に、日暮里をNipporiとしてあるだけでは不十分だとされ、日暮れの里という註記をそえるべきだ、と書かれている。つまり、清国からの留学生であった魯迅が、ただ一人で未知の仙台へ列車で行く途中、日暮里という駅標に、孤独感、寂寞(せきばく)感をいだいたことを註記によって知らせなければ、露人のその文意を理解できない、というのである。
 
 
日暮里を下町と言うべきかどうか。江戸時代の下町とは、城下町である江戸町の別称で、むろん日暮里はその地域外にある。いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末と言うことになる。日暮里町は、古くは新堀村と言い、その後、街の高台からの眺めがよいことから風光を眺めていると日の暮るるを忘る里」とされ、それによって「日暮しの里」「にっぽり」になったのである。諏訪神社の神主は日暮(ひぐらしという姓である。
 
町の中でみられる動物と言えば、犬、猫以外に牛、馬があった。自動車はめったに通らず、走ってくるのに気づくと、通り過ぎた後に立って深呼吸をする。ガソリンの匂いがハイカラな感じで、それを吸う。排気ガスなど人の意識になかった。トラックも走っていたが、荷車をひいた牛、馬も荷をはこんでいた。
 
東京の下町は、町の中だけで十分に生活できる機能をそなえていた。買物はすべて町の商店でまかなうことができ、食べ物屋もそば屋、鮨屋、天ぷら屋、支那そば屋、洋食屋などなんでもある。映画を観るにしても、日暮里町には、第一金美館、第三金美館、富士館、日暮里キネマの邦画を主とした四館があり、さらに少し足をのばせば三ノ輪にキネマハウス、本郷に本郷座という洋画専門館、入谷に入谷金美館などがあった。活動写真を観はじめた頃は、むろん無声であった。
 
・日暮里駅前から根岸にむかう道の左手にあった牛乳屋。裏手に乳牛を飼う柵をめぐらした牧場と牧舎があり、しぼった乳を殺菌して瓶つめにし、箱車に入れて町の家々にくばる。牛乳瓶は現在の牛乳瓶より細身で、ふたは鉢金の留め金のついた陶器製のものであった。戦前までは東京の町々にも乳牛を飼っている牛乳屋があった。それ相応の資本力をもつハイカラな会社と言った趣きがあった。
 
・朝食は六時少しすぎで、副食物はせいぜい納豆ぐらいで、味噌汁にお新香で家族そろってすます。友人に家より朝食の時間が早かったのは、商家だったからであろう。乳の製綿工場の始業時間は七時で、時報のようにその時刻になると正確に機械のうごく音がつたわってくる。
 
便所はいずれの家も汲取り便所で、不衛生きわまりない。長い柄杓で汲み取った糞尿を桶に入れ、天秤棒でかついで牛車にのせる。それは近郊の耕作地帯にはこばれ、肥だめに貯えられて畠にまかれた。山の手も同様で、銀座を糞尿の入った桶をつんだ牛車が往きかっていた。食生活もまずしく、栄養がかたよっていたので冬には霜焼け、赤ぎれになるのが常であった。戦前の東京は、現在と比較にならぬほど寒く、雪もよく降った。道の水たまりには氷が張り、朝、水道の水が凍って出ない。暖房具と言っても火鉢と炬燵だけで、朝起きると火鉢にかじりついてふるえていた。
 
町は不衛生であったので、疫病がはやり、疫痢、赤痢、超チブスなどでよく人が死んだ。ことに子供は疫痢にかかって死ぬことが多く、親は戦々兢々であった。母もその例にもれず、私と弟の食物を極度に制限した。西瓜、バナナ、梨、桃、柿などはすべてだめで、食べるのを許してくれたのは林檎、蜜柑程度で、しかも林檎はおろしガネですって、ふきんでしぼった汁である。
 
牛車、馬車も通っていて、糞が路面に落ちている。風が吹くと乾いた馬糞が舞った。鼠は多く、夜になると天井を走る猫が買われ、金網でつくられた鼠とり、猫イラズが売られていた。戦前の下町は不衛生だったが、住民は町をきれいにすることを心がけていた。住民は早起きで、家の前を清掃することから町の一日がはじまる。箒(ほうき)で丁寧にはき、桶にとった水を柄杓にすくってまく。それも、自分の家の前だけではなく、両隣の家の前まで清める。両隣の家でも同じことをするので、家の前は三度はかれ、水が打たれる。夏の日は、暑さをやわらげるため水がまかれ、夕方には再び清掃する。顔を合わせれば必ず挨拶の言葉をかわす。学校へ行く時、路上で会う近所の人に朝の挨拶をしながら急ぐ。窓格子の中から声をかけてくる人もいる。素知らぬ顔をする者などいない。
 
家の躾はきびしかった。朝、起きると両親の前に行って手をつき、お早うございますと言って頭をさげる。学校へ行く時、帰ってきた時、夜、就寝する時も同様である。母は、私たち子供に、「他人様のご迷惑にならぬよう…」ということを口癖にしていた。家が密集しているので、住民はお互いにゆずり合わなければ暮してゆけないのである。まさに、御迷惑にならぬように身を処さなければ、行きてはゆけない町であった。
 
 
「夏祭り」「黒ヒョウ事件」「町の映画館」「火事」「物売り」「町の正月」「不衛生な町、そして清掃」「演芸・大相撲」「食物あれこれ」「町の出来事」「ベイゴマ・凧その他」「台所・風呂」「曲がりくねった道」「捕物とお巡りさん」「戦前の面影をたずねて」など。

 

いいなあ……これ映像化してほしいなあ……ひとつの文化が終わったんだなあ……この名著を思い出しました。超オススメです。(・∀・)

 

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