「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「一瞬の夏(上)(下)」(沢木耕太郎)

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 いや〜!いい本に出会いました。アリスの名曲「チャンピオン」のモデルとなったカシアス内藤のドラマ。沢木耕太郎「クレイになれなかった男」のモデル。モハメド・アリの本名がカシアス・クレイだからね。(・∀・)


「強打をうたわれた元東洋ミドル級王者カシアス内藤。当時駆けだしのルポライターだった“私"は、彼の選手生命の無残な終りを見た。その彼が、四年ぶりに再起する。再び栄光を夢みる元チャンピオン、手を貸す老トレーナー、見守る若きカメラマン、そしてプロモーターとして関わる“私"。一度は挫折した悲運のボクサーのカムバックに、男たちは夢を託し、人生を賭けた。偶然によって出会ったいくつかの情熱が、一つの目的に向かって疾走する。東洋タイトル戦の実現に奔走する“私"。だが、生活のためにはトレーニングを犠牲にしなければならないボクサー、対立する老トレーナー。絶望と亀裂を乗り越えて、最後に彼らの見たものは……。一つの夢をともにした男たちの情熱と苦闘のドラマを“私ノンフィクション"の手法で描く第一回新田次郎文学賞受賞作」そのエッセンスを紹介しよう。


カシアス内藤がリングを離れてから4年以上。ボクサーにとって4年の空白は絶望的なもののはずである。カムバックなど不可能に近い。昔の経験がプラスになる以上に、それまえ多くの相手に殴られ続けてきたダメージの集積がボクサーにとっての大きな負荷となる。その上、ボクサーとしての肉体を取り戻すためには、空白の期間と同じだけでの長さのトレーニングの日々を必要とする
 
エドワード・タウンゼント。通称エディ。戦後日本のボクシング界は彼から実に多くのものを得た。トレーナーとして傑出した能力を備えていた。16年前にハワイからやってきて以来、藤猛海老原博幸柴田国明ガッツ石松といった多くの世界チャンピオンを作り出してきた。私は、今まで手掛けてきたボクサーの中で最もうまかったのは誰か訪ねた。「それは……やっぱり内藤ね。今でも、やれば、6週間ちゃんとトレーニングすれば、ジュンが世界チャンピオンになる、自信ありますね」
 
バンタム級フェザー級の間には、重さにして僅か3.5キロほどの違いしかないが、そのパンチ力の差を埋めるには、大河にひとり橋をかけるほどの困難を強いられれることがある。
 
・ボクシングは、ハンマーのようなパンチによって相手を倒すこともできるが、非力な者がスピードとタイミングによってハード・パンチャーをキャンバスに沈めることも不可能ではない、というスポーツなのだ。ボクサーに必要なのは腕力よりも足とバネと眼の良さだと言い切っても大きな誤りではない。内藤には素晴らしい足とバネと眼があった。
 
「内藤、ガマンできない子ね。打ちなさい、もう相手は倒れるから打ちなさい、でも、打つことガマンできない。内藤はやさしい子、あんなにやさいい子いない、でも、ガマンできない……」
 
こんなことをしていられない、という内藤の言葉には、少年期をすでに過ぎてしまった男の切実さが感じられた。
 
アリにあってトレスになかった飢餓感、まさにそれこそが内藤に決定的に欠けていたものだった。経済的、あるいは生理的な飢餓感なら、内藤にもあったはずだ。しかしメイラーのいう、超越的なものへの飢餓感といったものだけはなかった。チャンピオンなんかなりたくなかった。自由が減るばかりで厭だった。栄光なんてほしくもない」
 
内藤には、かつて一度もボクサーとしての最高の時を迎える、ということがなかった。最高の相手と、最高の状態で、最高の試合をする。そうした中で初めて、自分のすべてを出し尽くし、自分以上の自分になる瞬間を味わうことができる。だが、内藤にはその経験がなかった。常に、中途半端な敵と、中途半端なコンディションで、中途半端なファイトしかしてこなかった。私は内藤にその最高の時を作り出してあげられないものかと考えるようになったのだ。それこそが内藤の「いつか」になるはずだった。
 
「ジュンは天才なの。さっきも見たでしょ。コーナーで、ジュンが、ディフェンスするのを。あんなことできるボクサー、日本にいないよ。どこにもいないよう。世界チャンピオンだってできないよ。具志堅にだってできない。僕はね、50年間ボクシングやってるの。日本でも16年。いろいろなボクサーを見てきたよ。でも、いないのよ。あんなボクサー、ひとりもいなかった!」
 
・「アリが言ったんだよね。お前、カシアスという名前を捨てろって。その名前を使っていたら、いつまでたっても強くなれないぞ、って最近になってそのことをよく思い出すんだ。あの人の言ったことは嘘じゃなかったなあって」
 
・「いつか、いつかと思っていると、きっといつかがやって来る。……俺にもようやくいつかが来たと思うんです
 
とにかく勝ったのだ、と私は思った。内藤は勝った。しかもノックアウトで勝ったのだ。しかし見終わったあとの空虚さを僅かながら感じないわけにはいかなかった。この試合には何かが欠けていたような気がする。見る者を熱狂させる、ボクシングという競技が本来持っているはずの何かが欠けていた。試合は内藤がファイターとしての本領を発揮できないままに終わっていた。内藤がファイターとしてどれだけの力量を持ったボクサーになってきたのかは、ついにこの試合ではわからなかった。だが、それは相手の問題だったのだろうか。それとも、問題は内藤自身にあったのだろうか……。
 
・内藤は勝った。だがそれで終わったわけではなく、今、やっと何かが始まっただけなのだ。そう思った瞬間、始まったのは内藤ばかりでなく、もしかしたら私にもまた何かが始まってしまったのかもしれないいう、不安にも似た微かな予感がした。
 
柳済斗という名は、私たちにとって、夢という名の代名詞のようなものだった。柳を追いつめることが、夢ににじり寄ることだった。内藤にとってはオトシマエをつけることだった。柳を打ち破ることで、柳にオトシマエをつけるだけでなく、恐らくはカシアス内藤というボクサーにおオトシマエをつけたかったのだ。エディにとっては、その内藤をビッグマネーの取れるボクサーにすることが夢だった自分がマネージメントの権利を持った最初にして最後であろう選手の内藤と、まず柳を破ることろからビッグマネーへの道を歩みたかったのだ。私にとっては……たぶん私にとってそれは、6年前へ回帰することだった。
 
いいなあ……沢木耕太郎!!!夢中で読みました。ボクシングっていいなあ。文章でここまでボクシングのことを読ませるなんて。7月に読めてよかった。ボクシングファン、必読っ!超オススメです。(・∀・)