「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「吉本興業の研究」(堀江誠二)

f:id:lp6ac4:20210717064805j:plain

27年前に書かれた本。この間にも笑いはどんどん変化している。へー!!!吉本興業って 110年の歴史があるのかー!しらなかったー!φ(..)メモメモ

 
日本の「笑い」を支配する吉本興業―いまや芸能プロダクションにとどまらず、総合メディア産業へと変身しつつある。創業から80年余。人びとが何を求めているかをたえず模索して、時代の先頭を切って走り続けるヨシモトとは。タレント育成から流行づくりまで、驚異の快進撃のナゾにせまる」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
人気タレントという、いわば時代の最先端をゆく「商品」を走り、新しい事業活動を幅広く展開する吉本はいかにも若々しい企業に見える。しかし、その歴史は古く、創業は明治45(1912)年にさかのぼる。吉本が歩んできた80年あまりの道のりは、決して平坦なものではなかった。時代の変化とともに、大衆の求める「笑い」はどんどん移り変わった。どれだけ人気を誇った演芸も、また芸人も、いったん時代の流れに残されると、たちまちのうちに衰退した。その上、吉本に対抗する勢力や演芸の人気を脅かす新しい娯楽メディアが、次から次へと出現した。吉本がそれらを乗り越え、今日の王国を築くことができたのは、大衆娯楽の中で常に時代の最先端をゆく「笑いの文化」を仕掛けてきたからだと思われる。
 
・では吉本は80年あまりの歴史を刻むうち、いったんどんな問題に直面し、それに何を仕掛け、どのように乗り越えてきたのか。なぜ数あるライバルを退けて吉本だけが今日の成功を勝ち取り、日本の「笑い」を支配するまでになったのか。また。過去の経験から、いま、どのようなノウハウを持ち、何に危機を感じて、これからの時代に何を、どう仕掛けていこうとしているのか。明治からこんにちに至る大衆の「笑いの文化」の変遷と本質が、そして現在の吉本の「元気」の源泉が隠されている。
 
・万歳は、いま「漫才」と書くが、ルーツは祝福芸の「萬歳」だ。その萬歳が少しずつ形を変えながら、演芸のひとつに育っていくきっかけとなったのは、明治34〜5年から日露戦争にかけて、大阪の千日前で大流行した江州(ごうしゅう)音頭だ。
 
中邨秀雄「スターをつくる十の条件」
 
1 みえ・見てくれがよくくれがよくなければならない。
2 おとこ・男っぷり、あるいは女ぶりがよくなければならない。
3 かね・金をかけなければならない。
4 芸・芸は努力だけでなく、天性の部分を持っていなければならない。
5 精・精力的でなければならない。
6 おぼこ・幼く、かわいらしく、愛くるしく、母性本能をくすぐる魅力がなければならない。
7 せりふ・語りが上手でなければならない。性格がよくても話が下手では駄目。
8 ちから・健康でなければならない。夜昼なく働く体力が必要。
9 肝・肝っ玉が太くなければならない。
10 評判・人気がなければならない。人に嫌われるようでは駄目。
 
「このうち、3の金は会社がかける。つまり他力です。また十番目の評判も、周りの口コミでつくっていく。本人だけでは駄目です。そして、タレントを育てる役目のマネージャー側には、この十の条件のうち、どこに力を入れればよいのかを見抜く洞察力が必要です。さんまは、すべての条件を満たしたからスターになれた。つまり、スターはタレント自身と会社、マネージャーが三位一体になってつくった虚像なんです
 
「正之助は落語をつぶして漫才をつくった。しかし、漫才も行き詰まってきて、かえなければならない時期にきています。だから、われわれは漫才をつぶすかもしれない。その代わり、次に何をつくるか、です」
 
その他、「明治末期の演芸界」「寄席経営をチェーン展開」「「後家殺し」春団治」「震災を機に東京進出」「昭和初年の万歳群像」「洋服を着た万歳師」「十銭万歳の登場」「春団治のラジオ出演事件」「「万歳」から「漫才」へ」「落語は悪あがき、漫才の我が世の春」「漫才師たちの映画進出」「解散せなしょうがない」「王国の再建」「MANZAIブームの到来」「吉本総合芸能学院「大阪を超えた「大阪のタレント」」など。
 
100年の間に、笑いがどれだけ変化してきたのか、それを知ることって大事だよね〜!オススメです。(・∀・)

 

f:id:lp6ac4:20210717064805j:plain