「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇」(小林信彦)

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定本 日本の喜劇人

定本 日本の喜劇人

 
 
 

以前紹介した「定本 日本の喜劇人 喜劇人篇」の後半部分の「エンターテイナー篇」がコレ。今はなき、昭和の懐かしい芸人、エンターテイナーたちが息づいている。特に後半の【天才伝説 横山やすし】は圧巻だ。そのエッセンスを紹介しよう。

 

ザ・ぼんち「恋のぼんちシート」というけったいなタイトルは、近田春夫がジューシィ・フルーツのために作詞した「恋はベンチシート」のもじりとわかった。本家のほうが売れずに、もじりのほうが売れてしまった珍ケースである。
 
「漫才人間」は、生まれつき、漫才師たる才能を有する、アドリブの天才ともいうべき人間である実生活では神経質かもしれないが、舞台に立ったときはノンシャランに見える、自由奔放な芸風である。一方「役者人間」は、几帳面な性格で、台本に忠実である。感覚的ではなく、いかに予定の軌道を走るかに苦心する「漫才人間」と「役者人間が名コンビ」を生むという説は、現場の叩き上げの人にしか言えない深みと説得力がある。そういう眼で、漫才師の動きを眺めると、いちだんと興味深いはずだ。
 
テレビにおける笑いの変化を、もっともつきつめて考えているのは、萩本欽一だろうと思う台本、演出も含めて、もっとも真剣に考えているのは欽ちゃんだその執念が、スーパースターの座を保たせている、といっていい。
 
・芸人というものは、舞台、映画、テレビで観ているうちが花で、つき合うものじゃない。すぐれた才能の持ち主ほど、人間的にはアクが強く、かなわない。ぼくの経験で、はっきり、そう、いえる。
 
「言葉のギャグ・メーカー」の最たるものは、古今亭志ん生であった。ーなんだ、てめえは?帝釈天みたいな眼ェ、しやがって……。「おっかねえ眼つき」帝釈天みたいな眼」と表現するのが秀技である。まことに言葉の天才だと感心する。
 
・地方のホテルで、村田英雄が、フロントでキイを受けとるときに、「村田だ。キイをくれ」と言い、そこまではよかったが、つぎに売店でチューインガムを買おうとして「村田だ、ガムをくれ」と言ってしまった。
 
深見千三郎は戦前派の浅草芸人で、萩本欽一の先生でもあった。萩本の話では、たけしは、深見千三郎の芸風にそっくりだという。たけしに言わせると、捨てゼリフと田舎者を莫迦にするとことが似ている」そうだ。
 
萩本欽一「一度、人気が落ちないと、本当に良い仕事はできませんよ」
 
 
【天才伝説 横山やすし
 
・やすし「スナックへ行ったら、そこのママさんが同級生。なつかしい話をああじゃこうじゃしながら、飲むだけ飲んで」
きよし「逃げたんかい」
やすし「逃げるか。金を払うねんやないか、失礼な」
きよし「飲むだけ飲んでいうから、性格的に逃げたんやと思うたんや」
やすし「友達の店ではそういうことはせえへん」
きよし「ほな、よその店ではやんのか」
やすし「友達の店はつぶさん」
きよし「ほな、他人の店はつぶしてもええのか」
やすし「しゃれやないか、しゃれ」
 
・舞台はリング。敵は西川きよしただ一人。正味、倒さんことには、こっちが倒されてしあう。その真剣勝負をお客さんは楽しんでくれるのや。
 
漫才はむかしは「万歳」といった三河万歳、尾張万歳、エトセトラ。かつては、東京の家々にも万歳がきていた。上方の万歳の元祖は玉子屋円辰で、1865年(慶応元年)枚方市に生まれた卵の行商人であった。「万歳」が「漫才」に改称されたのが昭和9年4月というのも資料による。しゃべくり漫才を確立したエンタツアチャコのコンビの活動は4年3ヶ月と、驚くほど短い。このボクシング漫才をそのまま取り入れて、ストリップ小屋の幕間のショウにしていたのが、戦時中から活躍していた中田ダイマル・ラケットだったという。レコードに残された「僕は幽霊」「地球は回る目が回る」をきけば、ギャグがくりかえされることによって、おかしさが増幅されることがわかる。
 
香川登枝緒をはじめ。大阪の何人かの演芸好きが、漫才史上のベスト3として、エンタツアチャコダイマル・ラケット、やすし・きよしのコンビをあげている。やすし・きよしは、実はエンタツアチャコに始まる「しゃべくり漫才の最後の二人なのである。新しく見えるが、実は古典的漫才であり、この種の漫才はやすし・きよしで終わった。この道にいる限り、やすし・きよしを抜くことはできない。1980年、1981年の短い「漫才ブーム」はその事実を明らかにした。
 
安定したやすしは1944年3月18日生まれ
不安定はたけしは1947年1月18日生まれ
二人は3つしか違わないのである。そこを覚えておいていただきたい。
 
たけしにとって、漫才は「最高のもの」でもなんでもなく、才能を世間に認められるための手段であった。
 
・「他のタレントの場合は、テレビ局のスタジオに送り込んでからが心配です。横山さんの場合は定刻にちゃんと来るかどうかが心配で、スタジオに入ってしまえば安心できます」
 
ビートたけし「親御さんのどちらかから、どす黒い何かを受継いだ気がする」
 
テレビ時代、それも1980年という才能消費時代に「芸」を重んじたやすし・きよしは、漫才師たちの頂点にたつと同時に、時代からズレ始めていた。その「時代」というのは、やすし・きよしが斬り込み隊長として作ったものであったから皮肉である。1980年にやすしが「コンビはあと7年」と言ったのは、単なる思いつきではなかったと思う。中田カウス近代漫才はエンタツアチャコに始まり、やすし・きよしで終わったんやと思います」「近代漫才」は「しゃべくり漫才と言いかえてもよい。動きもあるが、しゃべりが主体の漫才である。
 
・世の中の大半が横山やすしときいて想い出すのは、没落してゆくやすし」の姿であろう。やすしは「漫才の天才」だったかもしれないが、世渡りの天才は「西川きよしである。
 
勝新太郎横山やすしも「破滅型」のレッテルで処理される。だが、横山やすしについていえば「自滅型」という方がぴったりくる気がする。やすしは彼に好意を持っている人々をみずから突き放してゆく傾向がある。自滅型とぼくが見る所以である。
 
漫才ブームに突入した1980年は、横山やすしの才能が最後の輝きを見せた時でもある。その後のやすしの実像がどうであれ、また、ぼくが「天才」という言葉は無闇に使うものではないとしつこく強調したとしても、大衆はいつまでも語りつづけるであろう。むかし、横山やすしという漫才の天才がいた、と。

 

…そおかあ…確かに横山やすしは天才だったよねえ…。芸人の世界って素晴らしいねえ。オススメです。(・∀・)♪

 

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定本 日本の喜劇人

定本 日本の喜劇人