ワタシの好きな詩人といえば、中原中也、谷川俊太郎、茨木のり子、吉野弘など。たくさんいる。作詞の「詞」と「詩」って違うもんね。そうだ、「詩集」って読まなくなっているなあ。そんなときに出会ったのがこの本。
「近現代詩歌を時代順に引きながら、喜びや悲しみを、詩人たちの実人生と共にしみじみと味わいます」そのエッセンスを紹介しよう。
・今どき「詩歌が好きです」と告白するのはかなり恥ずかしい。 勇気がいります。殊におじさんにとってはハードルが高く、 カミングアウトに近い。 下手をすると明日から社会生活に支障をきたすーような気すらしま す。まして「立原道造が好き」などと言おうものなら、十中八九、 相手は引きます。引かないとしら、 その人は立原を読んでいないのです。
・なぜ詩歌は恥ずかしいのか。近代詩はだいだいセカイ系です。 あるいは中二病。君と僕がセカイのすべてであり、 二人にセカイの命運がかかっている(ような気がする)。詩は、 とても悲しい。心の中ではセカイの命運を握り、 万能的に真理や歴史や永遠とコミットしているのに、 なんだか世間から疎外されている。浮世離れしている。 はっきりいえば余計者。でも,50年、 100年と経ってみれば詩人たちの言葉だけが、 後世の人々の知る現実と成り代わるのです。
・かくも詩は世界を作り、時代を作り、 しかし同時代の現実ではあまり役に立っていない。 だからお金にならない。読む方はもちろんですが、書く方もです。 ぜんぜんならないわけではならないわけではありませんが、 それだけで生活するには苦しい。たぶん日本史上、 詩歌の原稿料だけで生活できたひとは数えるほどしかいなかったの ではないかと思います。北原白秋も中原中也も立原道造も、 第一詩集は自費出版でした。
・かくも詩は、食うことに縁遠い。 それでも詩を作る人は絶えずいて、 啄木も中也も立原も短い人生の最期まで詩人であり歌人であり続け ました。そうやって、 食うためではなくて生きるために詩を作り続ける人がいて、 彼らは詩歌では食えなかったかもしれないが、 ちゃんと100年経っても読まれる人もおり、 だから彼らは今も詩人と呼ばれているのです。 絵で食えなかったゴッホが画家であるように、 彼らは本物の詩人でした。
・でも詩歌は役に立ちます。詩人の言葉は「季節の味わい方」 はもちろん、「本当の自分の気持ち」も教えてくれます。 詩人の言葉には人生の喜びや悲しみが凝縮され、 昇華して表現されています。 さらには食べたり飲んだりという毎日の暮らしもまた過剰な情感を 以て描かれています(それにしても、よく喰いよく飲むなあ)。
・どんなに美しく、また観念的、象徴的であっても、 近代詩歌は基本的には詩人の実人生を反映しています。 選び抜かれた言葉の襞のあいだには、 折りたたまれた人生の苦悩がぎっしし詰まっている。 美しい詩を作った詩人の人生にも戦いや嫉妬や憎悪があり、 友情や裏切りがある。狂気や不安が迸(ほとばし)る詩の背景に、 彼を支えた師友がいたりする。また共感力が異常に高い詩歌人は、 戦争や革命や事件といった社会の出来事に感応し、 陶酔的な作品を作ってしまう。そして、知人が亡くなると、 家族が引くくらいに嘆き悲しみ落ち込んで哀感のこもった詩歌を捧 げる。 また無意識の底から掘り起こした怖い真実と向き合ってしまったり する。近代詩歌の詩句、短歌を引きながら、 生活のささやかな喜び、友情や師弟愛、恋に失恋、 夫婦愛やすきま風……そして永遠の別れについて、 彼らの実人生と共にしみじみと味わっていきたい。
「大食いは師友の絆ー正岡子規、伊藤左千夫、長塚節」「日清・ 日露の戦争詩ー与謝野鉄幹、夏目漱石、森鴎外、大塚楠緒子、 与謝野晶子、乃木希典」「江戸趣味と西洋憧憬ーう上田敏、 北原白秋、木下杢太郎、佐藤春夫、萩原朔太郎」「 酒のつまみは何ですかー吉井勇、若山牧水、中村憲吉、 萩原朔太郎、中原中也」「詩歌と革命ー石川啄木、百田宗治、 萩原恭次郎、小熊秀雄」「恋する詩人たちー与謝野鉄幹、 与謝野晶子、北原白秋、片山廣子、芥川龍之介」「犯罪幻想( ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界ー萩原恭次郎、高村光太郎、 山村暮鳥、千家元麿、三好達治、佐藤惣之助」「抒情派の季節、 あるいはロマネスクすぎる詩人たちー中原中也、立原道造、 堀辰雄」「直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌ー北原白秋、 三好達治、高村光太郎、折口信夫」「 戦中戦後食糧事情ー斎藤茂吉、山之口貘、片山廣子」など。
いいねえ。文学青年のワタシ、詩歌好きのワタシ、健在だったなあ。恥ずかしいなあ。オススメです。(・∀・)